目次: 刊行のことば

谷村敬介

 昭和四十七年九月、京都大学ラグビー部創部五十年記念式典で、京都大学ラグビー部史刊行が企画されて、その準備が進んでいたが、刊行に至らなかったのは誠に残念であった。その後、昭和五十七年九月、創立六十年記念行事の際に部史刊行が決まり、今回ようやく京都大学ラグビー郡六十年史が刊行されたことは、創立者の一人として喜びにたえず、長生きしてよかったと思った。
 京大ラグビー部は周知のごとく、大正十年、東大ラグビー部を創設した香山蕃氏から「東大にラグビーチームを造ったから、京都大学にも早くつくって、東大と京大との定期戦を行い、日本のラグビーの健全な発展と普及に貢献しようではないか」との強い要請に応じて創立されたものである。
 香山氏は、英国の名門ハルクイン・クラブでイギリスのラグビーを体得して、大正十五年八月帰国した。この九月、京大ラグビー部は、香山氏をコーチに迎えた。彼の情熱と精魂をこめた指導が実を結び、昭和三年一月、慶応と早稲田を連破し、初の全国制覇を達成した。神宮競技場の満員の観衆を前に、京大は当時一般から顧みられなかった英国本場のエイトシステムを駆使し、グラウンドいっぱいに、FWバックス一体のオープンゲームをくりひろげて、近代ラグビーの醍醐味を満喫させた。当時は、セブンシステムの時代で、京大のエイトシステムがにわかに脚光を浴び、明大などの関心を深め、明大は後にこれを採用して打倒慶応の夢を果たした。
 この京大ラグビー部の創立と全国制覇は、香山氏によるところが多大であった。香山氏に心から感謝の意を表す次第である。
 昭和三年から三ケ年、全国制覇した以後、京大ラグビー部の使命は関西、関東の諸大学に勝ち、全国制覇することであったが、その後は実現出来ず、今日に至っている。しかし、使命達成を目ざし、各年度の選手は最善の努力をしたのである。
 特にOBの内藤資忠君は、昭和七年から七年間コーチをした。彼が勘案の「ラック戦法」は、一部から高く評価された。
 また京大ラグビー部が、全国高専ラグビー大会を大正十五年一月から十七年間にわたり主催または主管したことは、異例のことで、特筆に値する。
 昭和三年全国制覇した時の主将、星名秦君は昭和二十二年、満州から帰国して、その後同志社大学工学部の教授となり、同志社大学ラグビー部の選手を指導して、現在の強力な同大ラグビーの基礎をつくった後、昭和三十五年、京大ラグビー部の監督となり、所謂「星名ラグビー」を指導した。日本ラグビー協会の競技規則制定委員、技術委員長もつとめ、国際試合に備えて「競技規則」の解釈を現在の如く変更し、また近代ラグビーの技術と戦略の水準を高めることに大きな役割を果たした。
 以上の如く、京大ラグビー部は、創立当時の目的であった日本のラグビーの健全な発展と普及にいささかではあるが貢献したと自負するのである。
 京大ラグビー部創立以来、フェアプレーの精神と、大正十三年以来エイトシステムを一貫して堅持した選手諸君に、深く感謝する次第である。

(京都大学ラグビー部OB会名誉会長)