目次: 寄稿編 No.45 ラグビーは生涯の友 柴田 善助

 光輝ある京都大学ラグビー部の六十年史が刊行される運びになり御同慶の至りです。ただ我々昭和十五年卒業組は十四人であったが、此の中既に六人が他界せられ、この慶びを分かち合えないのが残念であります。

 我々が三回生になった昭和十四年四月、不肖私が主将に、和田白馬君が副主将に推され、重責を担う事になった。当時の部員は、夫々スクールカラーの強い東西旧制高等学校の強者ぞろいであったが、至らぬ私と和田君を守り立ててチーム作りに一致協力、相応の成績を上げ得た事は、全部員のラグビー愛好心によることは勿論なるも、又同時に京大ラグビーの輝かしい伝統を背に負っていたからだと思います。毎日のごとくコーチして下さった別所さんを中心とする諸先輩、面倒見のよかった田口マネジャー、そして毎日泥んこになって一緒に練習をした三十数名の部員に先ずもって御礼を申し上げたい。

 私の敬愛する和田君は成蹊高校の出身、ラグビーの虫で、勉強もよくし、その温かい人柄は全部員から慕われ、チームの纏め役としても大変貢献してくれた。和田君と私は、二回生の時、全日本学生選抜チームのメンバーに加えられ、北島忠治監督の下、九州に遠征して、早、慶、明の猛者達と同じサイドでプレイする機会を持てたことは、和田君にとっても忘れ得ぬ思い出であっただろう。和田君は卒業と同時に旧三井物産に入社したが、兵役から復員して間もなく二十一年三月、若くして病没された。誠に惜しみても余りあるラガーマンであった。

 この他亡くなった同期生は、甲南出身の吉利雄二、田村顕、光藤二三雄の諸君、成蹊出身の矢野通秋君、三高出身の滝田二郎さん、何れ劣らぬ闘将であったが、今や会って語ることも叶わず、当時の勇姿を懐しむばかりであります。衷心より御冥福をお祈り申し上げる次第です。

 私がラグビーなるものを初めて観たのは、昭和四年九月元日「京大農学部グラウンドで行われた京大と慶応の試合でありました。当時中学一年生だった私は、京大の学生であった叔父に連れられて行ったものですが、この日京大は十二対三で慶応を破り、二年連続全国制覇を成し遂げた試合であったのです。観戦しながらラグビーとは男らしいものだ、自分もやって見ようかなと思った記憶はありますが、それよりも、十五人の京大選手が、グラウンド東北隅の高台にある部室から一列縦隊になって馳け下りて入場して来た試合直前の光景が、今もはっきり脳裏に刻み込まれています。威風堂々たる王者の貫禄に打たれたのでありましょう。それから八年後、私もダークブルーのユニフォームを着るようにはなったのですが、貫禄不足であった事は争われません。

 我々が三回生の時の思い出深い試合は、同志社、東大、慶応との三試合であります。

 同志社戦は十四年十二月三日於花園。前半は三対八でリードされていたのを、後半調子を上げて振り切った試合であったが、我が方の反則二つに対し焦り気味の同志社は十六の反則をおかし、和田君と熊井(現鈴木)君が四つのペナルティゴールで十二点を上げ、結局二十五対十三で関西学生の優勝を遂げました。

 東大戦は上京して十二月二十五目於神宮。戦前評に実力正に伯仲と言われた此の試合は、我が軍の滑り出し極めて好調、熊井君のペナルティゴールに続いて、二トライを先取し九対零とリードしたものの、前半なかばに吉利君が脳震盪で倒れ、後半初めに白山君が肩の脱臼で退場するに及んで形勢は全く逆転、遂に五十一対十二で大敗を喫するという残念な試合となった。

 明けて十五年元旦の慶応戦於神宮。これは正に会心の試合運びであった。開始後十分に和田君が五十ヤード地点からのペナルティゴールに成功、勢いづいた我々はフォワード、バックズ一体となって終始攻めまくり、最後まで慶応にトライを許さず三十対六で打破ることが出来ました。我々十五年組の最も誇りとする記録であります。

 しかし我々は早稲田には三十対五、明治には五十一対三で敗れ、この両チームには一目置かざるを得なかった事を記して置かねばなりません。此の年の主要大学の実力順位は、読売新聞によれば、明、早、京、東、立、慶、同となっています。

 私は昭和四十七年から五十一年までの約四年半の問、会社のロンドン支店に勤務したが、日本ラグビー協会のアタッシェの役を引受けて赴任した関係から、英国のラグビー・フットボール・ユニオンから色々と便宜を与えられ、トウィツケナムに於ける国際試合は殆ど欠かさず観戦することが出来ました。

 凄いスピードと猛烈な当たりの真剣勝負ともいうべきテストマッチを見て、ラグビーが若人の体力と気力、そしてフェアプレイの精神を鍛えるスポーツとして、社会に重んぜられている意義がよく分かりました。英国で最も尊敬されるスポーツは、申す迄もなくラグビーとそしてボートであります。

 四十九年十一月、来英中のニュージーランド(オールブラックス)とバーバリアン(全英から選抜された選手のクラブチーム)の試合を、トウィツケナムで観戦しました。超満員の観衆の歓呼の中で、繰り展げられた此の熱戦は十三対十三の引分けに終ったが、私はこれ程スピーディな、プレイの切れない、肉弾相撃つゲームは未だ曽て観たことがなく、二度と見られないのではないかと思った程です。此のゲームは日本のプレヤーにも是非見せたいものと考え、ビデオテープを求めて日本の協会宛送りました。

 四十八年には全日本代表チームを、又五十一年には高校選抜チームを迎える好運に恵まれました。全日本代表はイングランド(二十三歳以下)とトウィツケナムで対戦、十九対十で惜敗しましたが当日夜ラグビーユニオン主催の盛大なディナーパーティがロンドン市内のホテルで催されました。招待状にはディナージャケット着用と指定されています。私は東大ラグビーOBの石坂泰夫君と一緒にネンバーワンのテーブルに着かされましたが、此のテーブルはテストマッチに何度も出場した所謂キャップを沢山持った昔の名選手ばかりでありました。そして驚いたことに私の隣りの席は、かの有名な「ラガー」の著者ウェークフィールド(敬称ケンダル卿)さんでした。彼は、当時七十四歳、かくしゃくたる老紳士で、テーブルは和やかにラグビー談義に花が咲きました。

 金野磁団長の答礼スピーチも素晴らしく、日本選手の「スキ焼ソング」の合唱も拍手喝釆を受けて、本当に楽しいディナーでありました。

 きつい苦しいラグビー生活を経験した者にのみ相通ずる心が、国の境を越えて楽しい雰囲気を醸し出すのでしょう。私はラグビーの尊さをしみじみと感じた次第であります。

 今年は早稲田が英国に遠征して、剣牛両大学と試合をすると聞きますが、日英親善のため誠に喜ばしいことと思います。近い将来我が京都大学が招かれて、我々OBも英国へ応援に行ける日の来ることを切望するものであります。

(昭和十五年卒 昭和十四年度主将)

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