目次: 寄稿編  No.116 日野公嗣君をしのぶ 監督 三好 郁朗

 輝かしい六十年史の最後の一頁で、痛恨のご報告をいたさねばなりません。
 昭和五十七年九月十五日、大阪の長居競技場でおこなわれた慶応義塾大学との定期戦に左プロップとして出場、終始敢闘した日野公嗣君(三回生、小倉高出身) が、ノーサイドの笛を聞くと同時にグランドで昏倒、ご家族をはじめ、僚友、関係者一同の懸命の祈りもむなしく、遂に一度も意識を回復することのないまま、四日 後の九月十九日未明に帰らぬ人となりました。
 四十二度をこえる高熱、全身的な筋肉拘縮と細胞破壊という症状は、集中治療をうけた大阪市立大学付属病院において、全身麻酔などで起こることの知られている 「悪性高熱症」であると確認されました。運動中の悪性高熱症というのは、アメリカなどではかなり早くから注目されていたようですが、わが国ではまだほとんど報 告例がなく、発病の原因も、予防法も、治療の決め手すらも不明のままと聞かされております。
 日野君は昭和五十五年四月に入学、入部、高校時代にラグビーの経験はないようでしたが、その後の二年半、部員の誰にも負けぬ精励ぶりで、体力的にも技術的に も一級のプロップに育ちつつありました。九月十五日のゲームでも、暑さの中、後半に入って戦況は慶応の一方的なものとなりつつありましたが、日野君を先頭にし たセットスクラムだけは、最後の最後まで十二分に抵抗をつづけておりました。ただ、後半のなかばすぎに一度、足の痙攣を訴えてグランドに坐りこむ場面があった のですが、それもすぐに立ち上りましたし、日野君の精神が肉体の限界を超えるようにして闘いつづけていようとは、スタンドもベンチも、ともにスクラムを組んで いた仲間たちも、到底思いもおよばぬところでありました。
 そして、四十分ゲームもあと一、二分というころ、最後になったセットスクラムに向かう日野君の身体が不意にバランスを失ない、前後に大きくよろめきながら、 やがて気をとりなおしたかのようにスクラムに入ってゆくのが見えました。その日、日野君が見せた、はじめての、そして唯一の異常でありました。
 グランド・ドクターの指示で救急病院へ運ばれてからの日野君は、ご両親が小倉からかけつけられる以前も、以後も、たえず大勢のチームメー卜に見守られつづけ ました。協会からもOB会からも、親身なお見舞いとお力添えをいただきました。突然に愛児を矢なわれた悲しみの中で、ご両親が、「公嗣がなぜあれはどラグビー に執着したか、ラグビーを愛する人たちの友情に接してようやくにわかった気がする」とおっしゃってくださったことがわれわれにとってはせめてもの慰めでありま す。
 チームメートを失った現役諸君の心情は思うに余りあるところですが、よろこびも悲しみもともに分けあった日野君の想い出のためにも、彼が愛してやまなかった 京大ラグビーの明日のためにも、そしてまた、六十年の歴史を継ぐ者の責務としても、月並みな言い方ではありますが、この悲しみをのりこえ、自分たちの信じるラ グビーのありようを追求しつづけてもらいたい。身近にいるOBの一人として、そのことを心から願ってやみません。

前の記事へ このページの先頭へ 次 の記事へ