目次: 通史編第二章 近代ラグビーのさきがけ

(1)香山コーチを迎えて

〔大正十五年度〕大正十四年度は、前出のように同志社との最後の決戦に敗れて関西第二位に甘んじなければならなかった。せっかく優秀なプレーヤーを揃えながら不本意なシーズンに終わった。何かが欠けているのではないか、と部員たちは思った。強力な指導者が必要とされるときであった。
 たまたま大正十五年夏、香山蕃が英国でのラグビー留学を終えて帰ってきた。その前年五月に英国へ渡った香山は、ハルクイン・クラブに所属してプレーを学ぶ一方、主要な試合は見のがさずに観戦、本場のラグビーを体得して、十五年八月に帰国した。ハルクインはイングランドでも名門クラブで、キャプテンは当時”偉大なプレーヤー”と噂されたウエークフィールド。その著書「ラガー」は日本のラグビー指導書のひとつとなっているが、香山の”近代ラグビー”の考え方にも大きな影響を与えている。
 この香山を、十五年度の主将望月信次は京大のコーチに招きたいと考え、先輩であり、香山の親友でもある谷村敬介に口添えを依頼して、香山の京大コーチ就任が実現した。

香山の出した三つの条件

 香山は三つの条件を提示した。まず第一に「京大OBは、香山にコーチを一任した以上、一切口出ししないこと」を求めている。香山が思い通りのコーチングを実現する上で極めて重要な提案であった。谷村はこれを確約した。香山が後年「いままで多くのチームをコーチしたが、あれほど思う存分やったことはない」と述懐しているのも、OBたちがこの約束を守って、一切を香山に任せて口出しをしなかったからである。
 香山の条件は、さらに、いつでも練習マッチができるよう三十人以上の部員を集めること、足の速い者(百メートル十一秒台で走れるTBライン)、体力の優れた者をそろえることであった。ラグビー経験者でなくても「基礎体力のできあがった他部の選手でラグビーに興味を持ち激しい練習に耐えぬく心身の持主」を求めて、望月らは部員集めに走り回った。
 甲南で陸上短距離ランナーであった進藤次郎も俊足TBライン候補としてつかまった。ボート部からは山口(のち都留)勝利、高寺市之助の巨漢、剣道部からは河合堯晴、柔道部から丸尾信、陸上からは進藤のほか小手川碩といったように、そうそうたる顔触れの各部選手が集まって、三十人を超す部員が勢ぞろいした。
 香山は、選手たちに、全員頭髪を丸妨主にすること、シーズン中は禁酒禁煙を絶対厳守することを求め、全部員がこれを厳守することを誓った。丸坊主は部員の団結を、禁酒禁煙は部員のセルフ・コントロ
ールを望んでのものであったろう。

香山の胸にバーシティーマッチの再現

 香山の心の中に、いま見てきたばかりのイングランドラグビーと、それを日本で再現する夢と抱負、自信と情熱があふれていたことがうかがえる。ことに香山の脳裡に深く刻みこまれているものの一つに大正十四年十二月十日ツイッケナム・グラウンドで、秩父宮殿下とともに観戦した第五十回オックスフォード対ケンブリッジのバーシティー・マッチがあった。この時の手記に、当時の日本のラグビーとイング
ランド・ラグビーの違いについて、次のように記している。
「日本のラグビーとイギリスのそれとは少々その趣を異にしている。ことにスリークォーターの技術においては、日本で行われているものとは余程異なった点がある。異なった点というよりもむしろ日本のそれはまだ極めて幼稚の域を脱していないことである。……大略をいえば、球を殺さないことである。球は常にオープンヘオープンヘと向かって行くのである。パスの盛んに行われることは想像外である。日本のスリークォーターのように突進すれば必ず一方に局限され、従ってパスはその方向にバックアップしてきたもののみへ行われるが、こちらでは突進せるものは左右いずれにもパスする用意ができている。だから球は転々して次から次へ進み、あるいはまた元へ戻って来たりする。一つ場所に固定していることが極めて少ない。しかもタッチヘ蹴り出すことも少ない。従って技倆伯仲していても球は両二十五ヤード問を往ったり来たりしている。味方が突進するかと思えば敵が突進する。パスの多いだけインターセプトされることも多い。こんなありさまだからこちらの試合は実に面白い」

球を殺さないラグビーを

 香山が実際にコーチに専念したのはわずか二か月余であった。その後も、時に応じて北白川のグラウンドに姿を現わして指導しているが、どのような方針でコーチに臨んだかを、香山は次のように記述している。
「当時の日本のラガー・プレーはイギリスでのそれと比較すると非常に幼稚なものでありました。例えば日本のラガープレーと言えば、何時も球をタッチに蹴ってラインアウトによって少しでも前進さそうとするような消極的なプレーばかり行われておったのであります。イギリスではタッチヘ蹴るということは非常に稀であって、球がいよいよ駄目になってはじめてタッチへ出すのであります。球は常に殺さないように、いかにして球を生かそうかということに努力を払っているのでありまして、これが最も大きな相違であったのであります。私は京都大学のチームにその主意のもとに極力コーチをしました。イギリスから帰ったばかりの新たな記憶をもって、イギリスで見た有名なプレーヤー振りを一つ一つ頭に画いて、それを京大チームのプレーヤーに一つずつ当てはめて行こうとしたのであります。当時京都大学には非常に素質の良いプレーヤーが沢山いました。そして無条件に私の言う通りになりましたからイギリスでの有名な選手の動きをそのまま移すことに成功したものです」

有名選手のプレーをあてはめる

 例えば、ウイング・スリークォーターについてはフライング・スコッチ・マンと異名を持っていたスコットランドのイアン・スミスが、対イングランド戦にみせた模範的プレーを頭に画いて、京大のウイングの動き方にそのまま移すようにした。センター・スリークォーターについては英のバーシティー・マッチでみたケンブリッジのフランシスの素晴らしい活躍ぶり、その動き方を吹きこんだ。またスクラム・ハーフは、球のある所必ず彼の姿ありと言われたイングランドのエー・ティー・ヤングの動きを伝えようとした。フォワードでは、香山が畏敬するウエークフィールド(バックロー・センター)の型を教えた。
 香山が京大チームにやらせた練習は「コンパクトでしかもハード」であった。当時指導を受けた星名秦は「時間はそんなに長くないが、いまの選手はとてもついていけないはどの猛練習だった」と語っており、進藤次郎は「関西ラグビーフットボール協会史」の中で次のように記している。
「香山さんの指導ぶりは非常にバラエティーに富んだもので、時にはフォワードとバックスがすっかり入れ替ってやってみる。ドリブル、ショートパント、クロスキック等は完全に出来るまでなんべんでもやらせる。パスを受ける時にトップスピードになっていなければ、すぐダメが出てやり直し。スワープとサイドステップの違いを自らやって見せては一人一人にやらせて徹底的に教え込む。一週に一度は必ず一〇〇メートルのタイムを取る。それも素手の場合と、球を片手で持つ場合と、両手で持つ場合という風に、両手で持ってもスピードは変わらないのだから、出来るだけ両手で持てと指導された。そして練習の最後は自ら先頭に立ってインタバル走法一、五〇〇メートルと三、〇〇〇メートル。初心者はその外にタックルとセービングの特訓がある。私などもタックリングマシンのドンゴロスで頸筋に何度も血のにじむカスリ傷を負ったものである。……セブン・ア・サイドの練習もしたし、またウエークフィールドの原書をそれぞれ自分のポジション別に輪読し、お互いにその内容を紹介解説し、論じ合ったりもした。
 香山さんのコーチの特徴は、言って聞かせて、やって見せて、やらせて見て、ほめる−という有名な海軍の山本五十六元帥流のやり方で、徹底的な実地指導をして、これに従わなかった場合には、かりにそのプレーで得点をもたらしても絶対に許さなかったものである。そうして個人、あるいは少数のグループでやれる基本的な練習はそれぞれの責任と時間内ですませておいて、全部員が集まって行う練習は出来るだけ煮詰めた形で短時間に、効果的に行うのが特徴であった」

インタバル走法も初めて採り入れ

 クロスキック、ショートパントの練習、インタバル走法とか、毎日記録をとる、セブン・ア・サイドによる練習など、きわめて新鮮で、画期的なことであった。香山が言っているように、当時のラグビーのキックは地域をかせいでラインアウトにもっていくタッチキックが多かった。香山はこの消極的プレーを封じ、クロスパント、ショーパントによって球を生かすことを教え込んだ。これらのプレーを香山の指示通りにやれば、失敗してもしからなかった。対神戸外人戦で、内藤資忠は、不得意な左足のクロスキックに挑戦してうまくいかず、ピンチを招いたが、香山からほめられた。逆に厳栄一は、本人が「寄稿編」で語っているように、結果がよかったのにしかられた。
 陸上部に先がけて採り入れたインタバル走法の練習はゲーム中の走法の変化が必要なことを教えた。百メートルのタイムを取るのはFWも同じで、フロントローの小西恭賀は、はじめ14秒台であったのに12秒台で走れるようになったという。FWとバックスとを入れ替えてのミニ・ゲーム、アメリカン・フットボールの突進力を参考としたパスなしの突っこみ練習、ボールを持たないフォローアップの練習、笛の合図で走り、止まり、反転するといった練習などによって、どんなときでも球を生かすことを徹底的に教え込んだ。身だしなみやマナーにも厳しかった。
 日本の近代ラグビーは、このときの厳しい練習によってその夜明けを迎えたといっても過言ではない。それは、現代の世界の強力チームの練習と、ほとんど変わらないものであった。
 進藤次郎は「協会五十年」に寄稿した「幻のような思い出」の中で「昨年(昭和五十年)ウエールズが来日した時、たまたまテレビで彼等の練習振りがほんの一寸紹介されたことがあったが、その練習方法なり、練習ぶりが半世紀前に蕃ちゃんによって教えられたのと非常に共通点があるのを発見して感無量なものがあった。エイト・システムの確立、バックロー・センターの華麗な動き(ナンバー・エイトはここから生まれるのである)ウイング・スリークォーターのクロスキック、ショート・パント、TB問のシザース・パス、一人とばしてのロング・パス、フルバックのライン参加等々蕃ちゃんによって初めて本場の英国から導入された数々のモダーン・ラグビー(当時として)は京大に全国制覇の栄光をもたらしたのであった」と書いている。

面目を−新した丸坊主の京大チーム

 大正十五年のシーズンはじめの十月九日、三高グラウンドで行われた対三高戦に登場した新しい京大チームは、全く面目を一新していた。前記、進藤の「幻のような思い出」は京大黄金時代の幕明けを告げるこの対三高戦の模様を次のように記している。
「定刻が近づいて三高の選手たちは胸に校章のついた白いジャージー姿も勇ましく、ランニング・パスやドリブルの練習を始め・出したが、京大の選手は一向に現れない。シーズン初めの好試合を期待してグラウンドの周囲を取り巻いたファンの中から『京大! どうした。早く出て来い!』といった催促の声も聞かれたが、その気配もない。十分前、五分前、京大ファンがやきもきしているところへ京大フィフティーンが望月主将を先頭に一団となって駈足で入って来た。途端に群衆の中からウウッという奇妙なうなり声が挙がった。何と京大の選手は全部頭をツルツルの五厘刈りにしているのである。そして練習も準備体操も一切しないでサッと中央に整列して三高側を待つのである。三高選手もレフリーもあっ気に取られた格好で中央に集まり、あとは型通り、そして定刻に試合は始まったのだが、長髪とイガグリの対照が誠に妙で、京大と三高がユニホームを取り替えたのではないかと錯覚するほど坊主頭がういういしい印象を与えた。ところが試合はそんな印象とは全く正反対に、ういういしそうな京大が長髪猛々しい三高をこの日は圧倒した。……この日の京大フィフティーンの動きはキビキビと力強く、まるで生まれ替わったようにファンの目に写ったのであった。事実、京大ラグビーフットボールの幻のような黄金時代のこれが幕明けであった」
 この日のゲームは13−9の得点差ながら”圧倒”という言葉がふさわしい内容であったという。続いて十月二十四日の対関西ラグビークラブ戦(甲子園)、十一月二十日の対神戸外人戦(東遊園地)は、11−14、3−8といずれも敗れているが、香山の指導は、勝敗よりも、プレー内容を重視するものであった。

TBはリレーメンバー

 こうして、十二月五日、関西学生の首位を賭け、北白川の農学部グラウンドに同志社を迎えて対戦。8−7(3−4、5−3)という1点差の接戦で辛勝した。
 京大チームは、かつて三高競走部のスプリンター内藤、星名、望月、馬場のリレー・メンバーをそのままスリークォーターにならべた最近例をみないはど強力な顔ぶれ。フォワードはバックメンに比較して見劣りする”跛行的チーム”と言われたが、香山コーチの新戦術に期待が集まっていた。
 一方の同志社はフォワードの住田が新メンバーに加わっているが、あとの十四人は前シーズン来の個人的プレーに優れているものばかり。スリークォーターも短距離界に定評あるスプリンター松見、橘、樋上などで固め、ことにフォワードは京大よりはるかに優れた技量と凄味をもち、バックローセンターの東田とハーフの桂のコンビネーションのよさに特長があって、全体的に同志社の方が優勢であった。
 同志社が押し気味にゲームを進め、東田のあざやかなドロップゴールで4点先行。その後中央線付近の混戦からボールを得た京大は、阿部から星名にパス、望月をフェイントして馬場に渡し、馬場から望月にリターンパスして望月トライ。後半に入り、阿部のパスを東田インターセプトして長駆左隅にトライ、7−3と同志社優勢。このあと同志社に再三トライチャンスがあったが、京大よく防ぎ、26分、京大のドリブル・ダッシュの球が幸運にもクロスキックのようになり、星名、望月と渡ってポスト直下にトライ、内藤のゴール成って8−7と逆転したのである。
 当時の概評には「個人的プレーに優れた同大は長所がかえって破綻を招いた。京大の勝因はただ少ないチャンスを完全につかんだと言うにとどまる」とあり、またスポーツ評論家岡本隆は「東田君の美事なドロップ・ゴール、京大スリークォーターの敏捷な活躍ぶり、同志社フォワードの鮮やかなルーズ・プレー、……こうしたファインプレーがいまもって走馬燈のように私の頭の中で回っている。全く最近にはかかるファインプレーゲームを見なかった。……いずれが勝ったにもせよそれは全く時の運であって技倆伯仲している両チームがお互いにその特長を十二分に発揮して堂々と戦った」と称賛している。
 この試合で、同志社の一選手がレフェリー(竹上)の再三の注意にもかかわらず、故意に尻をもって球をカバーするインタフェアを繰り返したとして退場を命じられた。わが国のビッグゲームで退場を命じられたのはこれが最初であった。

<メンバー表>

諒闇で東京遠征は中止

 十二月十五日には、三高と再戦して17−3で快勝している。こうして、京大チームは香山が「日本のラガー・プレーに対して革命的な動き方、少なくとも従来と全然異なった動き方になった。これで私の理想に近いチームが京都大学に出来上がった。望月主将、中出、内藤その他の諸君が実に熱心に練習された結果だ」と自信を持っているほど優秀なチームの基礎が出来上がり、東京遠征を待つばかりというとき、十二月二十五日に大正天皇崩御。年末年始のすべてのスポーツ行事は中止となった。
 同志社を破り、打倒慶応の一番手に駒を進めた京大チームにとっては、泣くに泣けない心境であったろう。この年に最後の命運をかけた主将の望月信次、中出輝彦、内藤資忠、巌栄一、別所安次郎ら超弩級五選手をはじめ、水津征一、清川安彦、西郡彦嗣、八木(旧姓増田)強介、小野裕三ら卒業する者にとって、その衝撃は大きかった。このようにして大正十五年のラグビー界は突然終わってしまったのである。関西ラグビークラブ奥村正也の同年雑感より次に抄録する。
「昨シーズン以来全国的興味をわかせるに至った全日本選手権試合は、西部の京都帝大に対して東部の何校に決定するか興味があった。早慶戦が引き分けに終わり、東大はまたビッグスリー戦に入る以前に諒闇となった。せっかく京大が強大を誇る同志社に苦戦して勝ち眈々と東都の戦空を凝視しながら終にそのままに終わらねばならなかったことは京大のために同情するところ」
 同氏はさらに、京大の香山コーチ就仕について大略次のように記している。
「英国から帰って来た香山氏が京大のコーチをするという噂が立っていた。なるほど香山氏は熱心に大高戦(十月三十日28−0で京大勝ち)に対する京大軍のプレーを傍で見ていた。すると間もなく京大のメンバーが大分変わった。同志社戦にはFWに合田君、FBに厳君が入っている。ゲームが始まると最初から京大のスクラムは同志杜を押し、球が同志社に出ると出足の速いバックローで美事に殺してしまう。同志社はFWとTBの連格を完全に封鎖されたのである。私は香山氏の策動をそこに見せられた気がした。誰かが香山氏のコーチは実に日本一だといった事を前から聞かされていた。あの同志社戦の京大のプレーを見て誰がこれに異議を唱え得ようか。香山氏は凸凹の多かった京大の気持ちをまず統一した。あの気むずかしい京大の人たちが一様に丸坊主に頭を短くしてグラウンドに飛び出して来た瞬間から、そこに香山氏が動いているなという感じがした。そして心の中で京大が東京へ行ったらどこと戦っても勝ってくるに違いないと信じていた」

九州へはじめて遠征

 大正十五年度の京大チームにとって、このほか特筆すべきこととして九州遠征がある。九州帝大に、大正十四年にラグビー部ができて二年目のことで、学年はじめの四月二十五日、工学部グラウンドに京大チームを迎えた。「九州ラグビー史」の記述によれば、試合は星名秦のドロップゴールを織りまぜて京大が32−0で先輩としての貰録を示した。
 九大のフルバックをしていた葛西泰二郎(元九州工大学長)の思い出によると「当日の工学部グラウンドは十重二十重の見物で、うしろの方の観衆は伸びあがらんと見えなかった。京大の実力は日本最高のものではなかったかと思う。あえて試合をやったんだが、私は激突しましてね。おかげで京大のメンバーとだいぶ友達になりました」と語っている。葛西はこの試合以後「石あたま」のニックネームを持つようになる。
 九州ラグビーと京大との縁は深い。長崎県のラグビーは、大正十一年に三菱長崎造船所に入社した吉田義人が創設者であり、佐賀県のラグビーは大正十四年に佐賀高等学校(旧制、現佐賀大学)に赴任した竹上四郎が指導したのがはじまりである。

星名のキャプテンシー

〔昭和二年度〕元号も改まった昭和二年度(一九二七年)シーズン、フォワード陣には青木倹二、バックス陣には進藤、宇野庄治、壇汎らの新鋭を加えて、前年に劣らぬチーム作りが行われた。香山が京大ラグビー部に蒔いた種は、主将の星名秦を中心とする新チームによって大きく育っていく。卒業した望月、中出らが兵役の暇を縫ってコーチに出かけたが、優れた独創力と統率力を発揮した星名のキャプテンシーに負うところが大きい。
 星名がラグビーを始めたのは三高へ入学してからである。柔道でもしようかと、道場をのぞきに行ったある日、京一中先輩の望月信次から「君は京一中か。それでは今日からラグビーだ」と、否応なしにラグビーの練習に連れて行かれた。一中だったらなぜラグビーなのか、訳のわからぬ理由ながら、それが星名の生涯のスポーツ、ラグビーに取り組むきっかけとなった。
 はじめはフォワードであったが、先輩谷村にその素質を見込まれ、センタースリークォーターに起用された。京大では工学部に入った。実験など午後三時までみっちり授業がある。三時十五分からの練習に遅れないようにするため、彼は昼休みに練習着に着替え、その上に制服を着て講義を受けた。授業が終わるや制服を脱いでくるみ、小脇にかかえて脱兎の如く駆け出してグラウンドに向かった。教室の同僚たちも協力、三時が近づくと、あとは引き受けた、と追いたてた。彼のこの行動はチーム・メートの心を打って、彼を中心に力強い集まりとなった。

陸上競技で基礎体力づくり

 星名のとった練習方法は、各自の自発的な体力づくりやプレーの工夫を重視しながら、総合練習では、香山が残した近代ラグビーをさらに科学的に分析し、変化攻撃をとり入れ、攻撃のパターンを十種ぐらいつくりあげた。ラグビー・シーズンに入るまでは陸上競技で基礎体力をつけることに力を入れた。五月二十二日京大グラウンドで行われた同志社との第四回対抗陸上競技は初めて京大の勝利となったが、これには星名をはじめ馬場、進藤らが短距離、リレー、投てき、跳躍に出場して活躍している。
 百メートルで馬場二位、進藤は三位となり、この二人はまた同大を破った八百メートルリレーのメンバーとして活躍している。星名は走幅跳、走高跳、円盤投、槍投、低障害と多種目に出場、走幅跳、低障害で二位、走高跳で三位の好成績。星名は同年八月、上海で開かれた第八回極東オリンピック大会に、吉岡隆徳、織田幹雄、南部忠平、大島鎌吉とともに日本代表に選ばれて出場、五種競技で二五四二点をあげて優勝している。
 五種競技は二百、千五百、円盤、ヤリ投、走幅跳の五種目で、走力、スタミナ、腰膝のバネという三拍子がそろわないと勝てない競技である。星名はこの年の日本の陸上ランキングでも五種競技で四位、十種競技でも十位にランクされているが、今も語り草となっている星名の鮮やかなサイドステップは、こうした鍛練によって生まれたものである。
 ラグビー・シーズンに入って、油が乗ってきた十一月二十日、関西王者決定の前哨戦である関西ラグビークラブとの試合が京大グラウンドで行われた。このチームに京大は前年敗れているのでその雪辱戦にあたる。また前週の十一月十三日に、同志杜が関西ラグビークラブに17−6で快勝している。
 京大対関西ラグビークラブの試合は、前半15分まで関西が健闘したが以後は京大の猛攻で合計8ゴール、2トライ、1DGをきめて49点という大量得点となり、関西をノートライに封じた。この試合までに、大阪高校と四度対戦して40−0、13−0、62−0、51−0で破ったのをはじめ、関大(53)姫路高校(39)天理外語(55)彦根高商(35)神戸外人B(京大B25)と九ゲームに大勝、いずれのチームにも得点を許していない。

同志社には1DGを許す

 十二月四日には、関西地区の覇権をかけて同志社と対戦した。同志社はこの年九月末から十月にかけて初の満州遠征を敢行、五日問に八試合も消化するというハードな日程ながら、全勝して帰国、チームカは上昇していた。京大との試合は前半7分、同大SHのミスキックを星名が捕えて左の宇野にパス、宇野は敵を一人抜いてノーマークの好位置にフォローしていた進藤に渡して最初のトライ。その後、一進一退、31分ラインアウト、密集からの球を得た京大は星名、宇野、進藤と渡って中央にトライ、星名のゴール決まって8−0と前半リード。後半は膠着状態となって両軍トライなく、同大は東田が得意のドロップゴールをきめて一矢を報いたにとどまり、京大は8−4(8−0、0−4)で同志社を破り、前年に続いて関西学生No.1の座を守った。京大チームは、これまでにない”力強さ”をもっていた。アサヒスポーツ岡本隆の記事から抄録する。
「京大のFWは体格のよい、重量も十二分にある立派なプレヤーぞろいで、タイト、ルーズともに完全に同志社を押し切り、密集を突破していた。同志杜は押されながら球を出すためSHは京大バックローに潰され、一度もいいパスを供給できなかった。京大バックローのため同志社は前後の連絡を断たれ、見る影もないまでにほん弄されていた」
「京大の今年のバックスは、昨年より遥かに優秀であった。スクラムハーフ阿部君と言い、スリークォーターの星名君、進藤君と言い、実に立派なプレヤーである」

<メンバー表>

合計得点四七七点、失点四点で東上

 同志社戦のあと、十二月十日には東遊園地で神戸外人(A)を9−0、京大Bも神戸外人Bを16−0で破った。この年の神戸外人は強敵で同志社に35−0で大勝している。この神戸外人との試合で自信をつけた。さらに十二月十七日には三高に22−0で勝って、関西での日程を、得点合計四七七点、失点はわずかに同志社に許したドロップゴールの四点のみという好成績で終えて、京大チームはまさに破竹の勢いで、年末から新年(昭和三年)にかけての東西大学対抗試合に臨んだ。前年は「諒闇」によって流れたため、三年ぶりの関西チーム東上である。この年度、関東では大きな歴史的異変が起きていた。

関東は波乱のシーズン

 これまで国内チームに対しては不敗を誇っていた慶応が、豪州遠征によってオープンプレーを体得し力をつけてきた新鋭早稲田と十一月二十三日神宮球場で対戦(レフェリー奥村竹之助)、6−8と2点の僅少差で苦杯を喫し、創部以来二十八年間守ってきた王座が崩れてしまったのである。
 慶応に、七度目の対戦で初めて勝った早稲田は、これで気を許してしまったのか、その後戦力が下降して、十二月十七日、東大に6−19で敗れるという波乱もあった。東大は慶応に3−18で敗れ、関東のビッグスリー早慶東は三つどもえ。さらに明治が力をつけて十月二十九日、慶応と3−3の引き分けを演じ、十一月十三日には東大を13−11で降したものの、その後十一月二十六日立教に3−15、十二月四日早大に6−9で敗れるという情勢であった。これに立教が続いている。
 五校の成績は@早大=四勝一敗A慶応=二勝一分一敗B東大=五勝二敗C明大六勝一分二敗D立教=五勝二敗で、関東は早明の躍進が目立つシーズンであった。

東大をノートライに封じる

 京大の東上第一戦は例年のごとく東大であった。十二月二十八日、神宮競技場で対戦、前半は東大の善戦で仲々点がとれず、中どろ25ヤード付近のタイトスクラムから京大球を得て阿部、壇、宇野と渡り、ゴールライン前7ヤードで進藤にパス、進藤トライして3−0、後半は進藤、宇野、馬場のトライ、星名の二つのゴールキック、二つのPG成功で19点を加え、22−0で快勝した。
 新聞評では「京大の洗練されたプレーには東大は敵すべくもない。後半、京大が東大をかく乱したその走力は立派なもの。京大TB全体の恐ろしいダッシュと宇野、星名の奮闘は矢継早であった。京大はさすがによく球につく。川本、位田(FW第二列)の奮闘も見覚ましく、スクラムを回されてもFWはどんどん破って進んだ。京慶戦は面白いゲームを展開するだろう」と、元旦での慶応との対戦に期待を寄せている。

<メンバー表>

レフェリー香山の不満

 しかし、この日レフェリーをつとめた香山蕃は不満であった。彼の脳裏には二年前ツイッケナムでみて感激したオックスフォード対ケンブリッジのバーシティー・マッチの精練されたプレーがあった。ダークブルー対ライトブルーの東西両帝大戦に、バーシティー・マッチの再現を期待していた。香山は、レフユリーの立場からみた批評と断って、ほぼ次のように書いている。
「(前年、京大をコーチして)私の有する知識のすべてを注入する機会を得た。京大は十二月ころには真のイングリッシュ・ラガーに近いプレーをみせ、かつてバーシティーラガーマッチをツイッケナムで見てうらやんだプレーを極東の我が天地において眺め得る時期も近づいたと喜んだが、諒闇のためにその結果を見ることは出来なかった。しかし去年蒔かれた種は本シーズンに至って元気のいい新芽となって萌え出ることを予想していた。ウインブルドンで一人ひそかに祈ったわが日本における真のラガー、それが今現実となってあらわれるのではないか、と言う胸のとどろきすら感じていた」しかし、試合は「キックオフのホイッスルからノータイムのホイッスルまでレフェリーの目を見張らしたものは反別ばかりで美しいプレーとしてホイッスルの間にも感心させられるようなものは残念ながら無かった」「22−0のスコアは京大の大勝ということになるかもしれない。しかし勝敗など問題でなくプレーそのものの実質を貴ぶ。それによって現在の日本のラグビー界の旧套を脱ぎさらしめたい。そうしなければ、英国へ遠征するにはあまりに力の懸隔が甚だしくて問題にならない」「プレーの実質を貴ぶ結果はその実質的向上によって他の追従を許さない強大なチームになることは論ずるまでもない」「しかるに、風上を取った京大は、前半わずか3点を先取したに過ぎない。殊にスクラム・プレーからオープン・プレーに移るところはエイトの最も価値づけられる点であるのに、そこに最もウイークを示したことは大いに考えなければならない」
 香山は海外遠征に備えて日本チームを国際的レベルにまで高めるため厳しい批判を述べたものであろうが、このようなアドバイスを受けた京大チームは、昭和三年元旦の慶応戦、七日の早大戦で日本ラグビー史上に残るすばらしいゲームをみせてくれる。

入場料徴収に末広部長の反対

 このシーズンから慶応との定期戦は元旦に行われることになった。その前に、入場料徴収問題があったことに触れておく。
 早慶戦がラグビーによって復活して、早大側から入場料徴収が提案された。しかし慶応側に反対論が強くて実現せず、ようやく大正十三年六月に関東ラグビー蹴球協会が設立されて、入場料問題を解決。同年の第三回早慶戦から協会の手によって徴収されることになった。金三十銭を徴収。その配分は諸経費を差し引いたあと、三分の一を協会の基金とし、残りを両校体育会または学友会で折半することにきまった。この年、明治神宮競技場が完成、ラグビーの普及発展とともに、ここが戦前の主要ラグビー・ゲームの主競技場となっていくのだが、それと共に、協会による入場料徴収も既定事実となっていった。
 ところが、京大は大正十三年以来の久しぶりの東上で、入場料問題に初めてぶつかった訳である。このいきさつについては、「寄稿編」で谷村によって詳しく述べられているが、京大が東上する前に関東ラグビー蹴球協会から京大に「一月一日の慶応との試合は協会主催で、規定により入場料を徴収する」という通知があった。しかし、ラグビー部長の末広重雄教授は、アマチュア・スポーツに対する厳しい考えから、入場料徴収に強く反対した。
 末広教授は硬骨をもって知られる人で、一度言いだしたら、一歩もあとへ引かぬというところがある。例えば、昭和四年一月、京都医師会で「日支関係の現状および将来」と題して講演、その中で満州における某重大事件」に言及して政府の対中国政策を批判。これが世間に知れて大学教授として不謹慎だと非難されたことがある。「某重大事件」とは、昭和三年六月、張作霖が日本軍の手により爆死した事件で、軍は極秘としていた。末広教授は「某重大事件は、知識階級にだけでも真相を知ってもらいたいと考え、日支親善のために講演した。速記を止め、別段これを公表した訳ではないから、問題にされる訳はない」「問題にする人は勝手にするがいい」と世間の非難をつっぱねている。
 入場料問題に対しても「学生スポーツは興業ではない。文部大臣を叱責して入場料は全部廃止させる」と頑強であった。協会側も入場料規定を決めた以上、京大の主張を認める訳にいかない。

谷村妥協案で慶応戦開催へ

 結局、京大側の委員、村山仁が上京、東京にいた谷村敬介と共に関東協会の田辺九萬三理事長らと折衝、谷村の独断で「@京大として来年度からは入場料徴収規定を守る、(2) 一月一日の試合は入場料を徴収せず、これに代えて、観衆に入場料相当の金員(五十銭)を神宮競技場入口に設けてある箱に任意に入れてもらう」という妥協案を出し、協会側もこれを認め試合開催にこぎつけた。京大側は、その分配金の使途については、OBで構成する保管委員会で管理、アマチュア・スポーツの精神を守ることにした。
 京大選手の一京での宿舎は青山の青年会館であったが、夜十時にはスチームが切られて寒いのに閉口、部員のほとんどが風邪を引き、闘将二宮晋二のごときは、大晦日に発熱して、悪くすると慶応戦に出場できないかも知れないと心配させた程であった。おまけに隣りに歩兵第四連遂があり、早朝のラッパに眼をさまされて、選手たちのコンディションは余りよくなかった。

はじめて慶応を破る

 こうして昭和三年一月一日、慶応戦を迎えた。神宮競技場は、協会の予想を上回る数万の大観衆がメーンスタンドを埋めつくすという盛況であった。試合は午後二時半、京大四谷側、慶大青山側、主審目良篤(線審奥村、北野)で開始。試合経過を時事新報、東京日日(毎日新聞)、アサヒスポーツ(奥村竹之助)の記事から再現すると次のようになる。
 ◇前半 慶応萩原キックオフを京大返し、慶応前衛振るわず、京大は球を得てバックにパスし宇野、馬場等のキックに25ヤード押し寄せ、ドリブルでゴール正面近くに迫る。ゴール前10ヤードスクラムから4分、阿部のパスを受けたスタンドオフ村山がカッティング、ゴール・ラインを突破して飛び込み、トライとみえたが、慶応のタックルにドロップアウトを宣せられた。慶大は富沢、丸山の突進に京大陣25ヤード内に一挙に押し寄せたが、京大前衛よく慶応を圧して回復し、村山キックして25ヤード内に押し入る。慶応盛り返そうとしてゴール正面10ヤードで反則(ドリブルのオフサイド)あり、9分、京大星名20ヤードからプレースキックしてペナルティーゴール成り3点を先取した。
 京大は慶応のキックを受けて宇野、村山のキックで進み、中央近くのルーズから京大球を得て阿部、村山、星名と渡る。星名は慶大が宇野をマークしているのを観破、見事にパスをフェイントしてTBラインを抜き30ヤード走って慶大フルバックにタックルされつつ宇野にパス、宇野はそのまま進藤を余してポスト近くに易々とトライ、星名の
ゴール成り5点を加えた。(12分)
 しかし、その後は慶大ようやく調子づいて逆に京大を圧し、自陣25ヤード近くからTBのパスで見事に突進し、ウイングの丸山が長駆深く京大陣をおびやかしたが、惜しくもタックルされた。続いて慶大のFWパスは最後に中村の巧妙なクロスキックであわやトライと見えたが、京大馬場俊足を利して後方から追い抜いて押え、ドロップアウトとして一瞬の問に危機を救った。このときの慶応のFWパスといい、中村のクロスキックといい、フォローといい、まれに見るファイン・プレーであったが、危機を救った馬場もまた功一級に値するもので、真に双方ともに間髪を入れざる美技であった。
 ◇後半 ようやく調子を出した慶大は球が手につき、FWの高野、高橋、吉本らのショートパスで25ヤードを突破したが6ヤードでタッチ。京大は巧みなドリブルで返して25ヤード前に押し寄せ、ルーズの球を得て阿部、村山、宇野とパス、宇野は一度タックルされて止められたが、拾ってさらに進藤にパス、進藤左コーナーフラッグめがけて走り、俊足よく敵の追走を免れて左隅にトライ(5分)、11点となる。
 慶大奮起し、京大はようやく疲労の色が見えてFWの出足が鈍ったのに反して、慶大は段々と調子を整え、右に左に息もつかせぬ得意の攻撃に京大は防戦にいとまない有様であった。9分慶大は右タッチ近くのルーズから京大を圧迫、25ヤード内萩原の活躍で左から右ヘショートパス、富沢トライせんとしたが、俊足の京大よくカバーしてドロップアウト。その後も慶大よく攻め、丸山の突進などでチャンスを作ったが実らなかった。
 タイムアップ6分前、遂に慶大FWパスが功を奏して京大に対して最初のトライを得た。ゴール前右寄り15ヤードのルーズから球を得て、萩原、長沖にパス、球がバウンドして返るのを浜田拾って京大の防御を切り抜けて突進、さらに高野にパスしてゴールポスト近くにトライ。萩原のプレースキック入ってゴール。
 試合は白熱し球の動き早く、慶応またも攻めた。しかし京大のタックルも見事で、星名が堤を追っかけて後からスライディング・タックルした時はさすがに満場をうならせた。京大にも32分の好機あり、宇野、進藤と渡って正に慶応の防御を突破せんとしたが一髪の間に堤のタックルきまり、京大攻勢のうちにタイムアップ。11−5(8−0、3−5)で京大が初めて慶応に勝った。

華々しいオープン戦を展開

 ◇戦いの跡(東日・大毎)京大は誇るべき俊足のバックを有し、前半完全に慶大を圧迫した。慶大はせっかくFW中村がショートパスの後ゴールに蹴込んだ好機を得ながら馬場にタッチダウンされたのは惜しかった。後半慶大は優勢になってしばしば京大陣を脅かした。京大進藤のトライは宇野からパスされた時、慶大の丸山、富沢がいたので、思い切って左横に走り安全にしていたのは頭がよかった。京大はよく球につき、慶大のバックローはたびたび京大に出る球を潰していた。(T)
 ◇奥村竹之助の評(アサヒスポーツから抄録)京大の第一の強味はチームそのもののスピードあるダッシュである。TB四人に全部百メートル十一秒台が揃っていることを始めFWにも俊足が多く、これらの俊足が極度に発揮されるようにトレーニングされていることが他のチームに見ることを得ない強味である。馬場君が危機を救ったのをはじめ二回目のトライのごとき、ただ丸山君と進藤君の猛烈な走りあいになって、単に足が早かったために得られたものであるが、さらにチーム全体としてのスピードこそ、球の運び、フォローアップ、FWの出足等によくあらわれていた。慶応の敗因は最初の15分に得点を許しすぎたことであったろう。しかし、そのプレーぶりには慶応らしい鮮やかさがあった。往年の慶応に比して決して劣るものではない。
 スピードあふれる京大チームの動き、阿部、村山のハーフ団、馬場、星名、宇野、進藤と並んだTBの「凄いダッシュ」に対して、新聞は「未曽有」という表現を使って特筆し、慶応の善戦によって華々しいオープンゲームを演じ、壮烈に実力を戦わした試合を「ラグビー界のために祝福したい」と称賛している。
 この試合は、エイト対セブンの試合として興味を持たれたのだが、この点「エイトシステムの消化、スクラムプレーに今一歩」と奥村は、先輩の日から次のように忠告している。
「京大のヒールにスピードがなく、ボールは皆、出足早い慶応バックローの潰すところとなってバックに渡らず、FWがキープして前進せんとすれば、倒れたプレヤーにさえぎられて進めず、漸く横にホイールすれば、萩原君(慶)が巧みにこれを拾って、却って慶応のバックにボールが渡るという始末で京大は取ったポールの始末に窮していた。ハーフにポールが出せない時にスクラムプレーでボールを始末し得るところにエイトの真価がある。今年の京大は、パスは大いに練習され、FWの出足も揃っているが、ドリブルとスクラムプレーにはまだ十分手が回っていないようである。エイトのスクラムを組む以上、ヒーリングにおいてはセブンに及ばないのであるから、スクラムプレーに熟達することは非常に大切である。」(アサヒスポーツより)

<メンバー表>