目次: 寄稿編 No.2 六十年史に寄せて 堀尾 正雄

 私が京都大学に入学した大正十四年は、ラグビー部が生れて三年目に当るが、そのころすでに京大ラグビー部は不敗を誇る強力なチームに成長していた。そして私が大学を卒業した昭和三年とその翌年には全国制覇の偉業を成し遂げている。進藤、宇野、星名、馬場、阿部、二宮、増井ら諸兄の絢爛華麗重厚な英姿が今なお眼前に漂う。私がこの想い出深い栄光あるラグビー部の部長に就任するとは予想もしなかったが、その光栄に浴したのは昭和三十四年シーズン前のことである。現在、帝人松山工場技術部長として第一線で活躍している平塚尚三郎君が当時チームのHBであり、私の研究室に居た関係もあり、井上吉之先生定年ご退官の後をうけて第四代ラグビー部長を拝命することになった。

 私は京大ではラグビーはしなかったが、大高時代の三年間はまさにラグビーの三年間でもあった。これは今なお私の心の強い支えである。京大チームが全国制覇したときの名ロック増井克己君や名HBの村山の仁さんらと一緒にグラウンドを駈けめぐった。そのような因縁のある私にとって京大ラグビー部長の就任は感銘深いものがあった。

 私が部長に就任したとき、巌先輩が監督で、実戦指導は専ら星名さんが担当しておられた。私は星名さんをラガーの鑑と思い学生の噴から畏敬していた。私が部長に就任したとき、星名さんは私の教室に来られ「よろしく」と申され、私は深々と頭を垂れた。星名さんは同志社大学の教授であり、後に学長の要職にあり乍ら、要務を終えられると毎日京大の農学部グラウンドに来られ、ホイッスル片手に日がとっぶり暮れるまで実戦指導をされ貴重な薫育を垂れられた。これは尋常ではできることではない。星名先生こそは、京大ラグビー部をこよなく愛され、育てられ、それに命を捧げられた尊い方であると心から敬っている。

 昭和三十七年京大ラグビー部創立四十年を記念する色々の行事が京都国際ホテルで盛大に催された。式のあとOB連は京極の三島亭に集合し蛮声を張り上げつつ時の経つのを知らなかった。それから早や二十年の歳月が流れ近く創立六十年を祝うことになっている。ああ、尊いかな、京大ラガーの絆!

 定期戦の中でも特に力の入ったのは対東大戦であった。私が部長に就任した昭和三十四年に東大でもラグビー部長が交替し、工学部機械工学料の鵜戸口英善教授が就任した。「これは負けられぬ」と思った。彼とは日頃大変昵懇の間柄である。愈々十二月二十七日対戦の日が来た。新任部長同士の初顔合せである。「ヨウ」、「オウ」と挨拶したが、ノーサイドの笛が鳴るまではと互に袂を別った。この試合には力が入つた。しかし天は友情を尊ばれたのか、11対11で引き分けた。またある東大戦の折、私の横に巽さん(昭16、FW)が居られた。愛息は東大チームのラガーで今やグラウンドにおける敵手である。「複雑な心境ですね」と私がいうと、「何をいうか」と巽さんはむっつりされ、京大の選手に向って「タックル、タックル!」と絶叫されたことを覚えている。

 東大以外に、慶大、早大、明大など東京の強豪とも毎年定期戦が行なわれた。いづれも手どわく仲々勝てなかった。しかし、ラグビーはまさに「意気こそ力」である。昭和三十六年十二月二十八日、秩父宮ラグビー場にて関東の雄早稲田大学と対戦した。スタンドには京大出身者が沢山観戦に見えた。この日の味方のアタックの鋭さには皆が眼を見張った。まさに「雄獅子は覚めたり」の感である。ハラハラするような大接戦の末17対14で勝った。試合が終ったとき、谷村先輩が「お蔭で勝たしてもろうた。星名君ありがとう」と言われた言葉がまだ耳に残っている。この日谷村先輩の計らいで私は石黒兄のレストランで豪華なフランス料理の歓待を受けた。酌みなんうま酒、舞いなん空に! 他にも楽しい思い出は沢山あるが、選手諸君と共に泣いた悲しい戦いも沢山ある。

 私が部長を仰せつかった頃、農学部グラウンドでは、ラグビー以外に、陸上、サッカーなどの練習も同時に行われ、ラグビーに使える場所はグラウンドの一部分に過ぎなかつた。星名さんはそれを嘆かれ専用グラウンドが欲しいと常々申された。昭和三十七年に私は偶々京都大学体育会長に任ぜられた。その頃宇治市から申出があり、京都大学と共同で、宇治黄築万福寺の裏山の旧陸軍火薬貯戚所の跡地に「宇治総合運動場」建設の議が持ち上った。これこそチャンスと思い大学本部と共に実現に努力した。幸にこの申請は昭和三十八年度の政府予算に計上され、京都大学六万u、宇治市六万uの総合グラウンドができることになった。ラグビー専用グラウンドがその中に含まれていることは当然である。その後四年の年月を経て昭和四十二年三月に目出度く総合グラウンドが完成した。宇治川の清流、国宝平等院を眼下に見おろす勝景の地である。この年の五月、奥田総長を迎えラグビー球場の開場式を行なった。また大学本部の好意でナイター用の照明設備ができた。練習が済んで夜八時頃選手が京都に帰るためにスクールバスを運行することについても大学は好意ある配慮をしてくれた。当時大学には数人の運転手が居たが全員ラグビー部のためならばと、積極的に協力の申し出があって感激した。運転手に対する謝礼については、谷村先輩のご配慮にてOB会から援助をいただけることになった。このスクールバスの運行は最近まで続いた。

 私は昭和四十四年定年退官するまで丁度十年間光栄あるラグビー部長の席をけがすことができ、その間に沢山の先輩諸氏、多数の選手諸君、そして数多くの学外の京大ラグビーファンの皆様のご厚誼を賜った。有難いことであると感謝している。

 京都大学ラグビー郡の六十年の歳月は洵に意義深い。先輩が築いて下さったこの尊い歴史は大切にしなければならない。

 京大の若いラガ一達よ。栄光ある京都大学ラグビー部のために輝かしい未来を開いて下さい。

(前ラグビー部長)

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