目次: 寄稿編 No.7(一)京大運動場−北白川グラウンドができるまで 勝島 喜一郎

 京大には創立当時からはっきりした運動場がなく、構内の東北隅に小学校の運動場くらいの空地があって、そこで中沢岩太先生が委員長となって運動会を催し、小学生、中学生、高等専門学校の選手も招待して優勝旗を授けたという記録があるが、大正九年に建築科の教室が建って、僅に馬術部の馬場と馬小屋とがあるだけとなり、野球部は三高や植物園グラウンドや岡崎公園を使い、陸上部の運動会も植物園を使い、ラグビー部も専ら三高で練習し、試合した。

 大正十二年に農学部開設のために道路の北の地に建設が始った。その時、それまで各運動部の先輩が要望していた運動場をつくる計画で東北隅に農学部実習地という名目で広い空地を作ったが、この空地をどういう寸法にすれば各競技に都合がよいか、ということで、時の大学の福井事務官から土木科三年生の比企元君に相談があった。比企君は私と三高同級で陸上郡のマネジャーであったので、早速私のところに相談に来た。そこで二人で野球とラグビーと陸上競技とに都合のよい寸法の広さを調べ見物席も考えて図面を書き、比企君はお手のものの土木の製図を書いて、野球の内外野とラグビー場と一周四〇〇米と直線二〇〇米とのトラックとの線を色分けで重ねて書いて完成し、二人で中沢良夫野球部長の検閲を受けて福井事務官に渡した。これは大正十三年の二月の事であった。トラックはその後一周五〇〇米に直されたり、野球のホームベースの位置も移り変ったりしたが、大正十三年に農学部が開かれると共に京大の各運動部はグラウンドを借り歩くつらい思いをしなくてもよいようになった。

 グラウンド開きといった行事はなかったかも知れぬが、大正十三年の六月の十日すぎに、京大創立二十七年の祝賀会がこのグラウンドであって、徴兵検査を受けに帰っていた私も参列し、田島錦治法学部良の挨拶のあとで、卒業生代表ということで挨拶をさせられたことがあった。ビーアパーティーのあとで、太秦の日活から尾上松之助一行が池永天神監督に率いられてやって来て、北側の植込を背景にして、上杉謙信がスパイの女を斬る光景を余興にやった。

(大正十三年卒 故人)

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