目次: 寄稿編 No.8(二)京大倶楽部から京大ラグビー部となった頃 勝島 喜一郎

 大正十年、東大では香山蕃氏が中心となって、三高でラグビーをしていた人々を主とし、これに野球やボートや陸上競技や柔道の選手をしていた人々を集めてチームを作り、部にもなった。

 夏休に京都に帰省した番山氏は、谷村敬介氏を訪ねて、京大でもラグビーのチームを作り、東西両大学の定期戦を行うように勧誘したので、谷村氏は同級の岩田岩雄氏と共に九月の新学期に入るとすぐに、京大生で三高でラグビーをしていた選手と京一中でラグビーをしていて他の高校から京大へ入学した人々、それに野球、陸上、ボート、柔道などの選手をしていた人々を集めてチームを作ることになった。勿論まだ学友会の部になっていないから、費用がなく、主として谷村氏のポケットマネーで白のユニホーム、パンツとスーツキングとを買い、靴は各自の自弁で十数人の人が集り、三高の校庭で三高チームと一緒に練習を始めた。

 この時のメンバーはフロントローが岩田、梁、西広、セカンドローが勝島、北尾(経済学部選科生、柔道二段)、サードローが清水、滝口、奥山、鈴木、柴田(小西、京一中、八高野球)、

ハーフが安、藤尾(京一中、七高野球)スリーコークーに谷村、木村(京一中、七高陸上)、内田(七高陸上)、重名(青木、三高)等、フルバックは長谷川(京一中、四高)などの顔ぶれであった。

 チームとして最初の試合は三高校庭で京都一商が相手で、二番目は大阪高商チームであった。三番目には後に関西ラグビー協会(当時は西部ラグビー協会)初代の会長となられた杉本氏を中心とする慶応や同志社のOBで組織されたオールホワイトというチームであった。

 何分、やっとプレーが出来る最小限度の条件ばかりなので、練習に人も仲々集らず、とても東大と対等の試合が出来るような状態ではなかったので、東大戦は行えない気配が濃厚になっていた。

 ところが、東大側からは正月休に勇んで京都へ行くんだから是非共試合をしてくれと言って来たので、従来練習に殆ど出ていなかった奥山、鈴木君なども引張り出して十二月に猛練習をした。

 大正十年の暮から十一年の正月にかけての冬休には、慶応チームが西下して三高、同志社と京都で試合をした。東大との試合はその冬休の最後の日に三高校庭で挙行された。京大のサードロー奥山、鈴木両君はスクラムを殆ど押さず、相手のハーフのつぶし専門であったので、京大の二人のセカンドローは死力を尽してスクラムを押してたえたが、球がバックスに渡ると東大は殆どが三高でやっていた名手であるのに対して、京大は谷村氏一人であるから、奮闘及ばず、十三−○の得点で東大が勝った。レフェリーは竹上氏であった。

 実は東大にはもう一つトライがあった筈である。後半の終近く香山氏がボールを持って京大ゴールラインを左隅で突破し、そのまま押えればよいのにインゴールを中央へ回って走り、後から追いついた勝島にタックルされてドロップアウトとなったもので、試合後学生会舘で行われたミ−チングで大きな話題となった。

 大正十一年の四月には三高から渡辺宇、馬場、古川、土井氏等の名手が、七高からは京一中でやっていた柔道二段だった渡辺民氏等が入学して、メンバーの大半が変り、強いチームが出来、又学友会の部となって二百何十円かの部費もついたので、学友会の他のスポーツ部と同様に大いに練習もした。部長には末広重雄教授(法学部)をお願いした。

 十一年の十一月に、日は忘れたが神戸の東遊園地へ行ってKRACと試合をした。六−○か八−○かのスコアで勝ったのだが、翌日のどの新聞にも報道されていなかったが、京大チームはこれで充分の自信がついた。試合後のミ−チングはKRACのクラブハウスで行われたが、この日は外人婦人会のバザーもあって婦人や子供まで歓迎してくれた。京大側にはまだ歌うべき部歌もなくて困った。

 この年の東大戦は、十二月の末に、東京本郷の一高校庭の泥田のようなコンディションで行われた。ボールはすべってハンドリングが困難で、もっぱらドリブルに終始し、京大やや優勢であったが○対○の引分けに終った。東大の部長は末弘厳太郎教授で、試合後のミーチングは鳥屋の末広の本店で行われたが酔払った東大の難波君の動作などが未だに忘れられない。

 なお、二年目のメンバーは渡辺宇君がセンターで、北尾君は選科だから一年きりだったので右のセカンドローは滝口君がなり、三高で野球をしていた松村君が右のウイング、スタンドオフは古川君だった。首将は長谷川君であった。

大正十三年卒 故人)

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