目次: 寄稿編 No.11 自由と良友 渡辺宇志郎

 阿部吉蔵君から本年は京大ラグビー部創立五十周年に当るので、故渡辺民三郎氏(当時のキャプテン)に代わって、随想録を古川、土井両氏と相談の上書く様にと依頼されたが、何分今から半世紀も前の事とて、記憶も朧げ、又上記両氏との連格も思うに任せぬ。況んや、当時とは世相も変り環境も一変して居る今の若い選手諸君の参考になるかどうか、誠におぼつかないが、乞われるままに遠き昔を偲び、紙面を汚す事にした。

「京大ラグビー部創立以前の日本のラグビー界」

 横浜及び神戸の外人チームを除けば、先ず慶応、同志杜、三高とこの三つだけが挙げられたであろう。此等の三チームが年々三つ巴になって、激闘を繰返して居たのである。而して之等のチームから後年ラグビー発展に貢献した多くの先輩を出して居る。現在ラグビー界を統制して居るラグビー協会は、之等先輩の力に負う所が多い。

 然しそれ以前のラグビーは、サッカーに較べても非常に普及が遅れて居り、小生の如きも、あの楕円のポールを三高に来て始めて見た如く。ルールの本でも市中では得られず、先輩秘蔵の原書を訳す有様。ボールも遥々英国から取り寄せて居り、美津濃あたりに作らせたのは、すぐ皮が延びてしまって役に立たなかった。靴のスパイクにしても今は金属製となったが、当時は皮の積上げであった。

「プリンス・オプ・ウェールスの観戦」

 右の様な有様で、日本のラグビーは全く国内的競技に終始して居り、国際的な色合がなかった。所が此の頃、たまたま英国の故プリンス・オブ・ウェールスが来日。京都では、京大訪問の帰途三高に立ち寄られ、約三十分位であったが三高対神戸外人チームの試合を観戦せられた。

 之が我が国ラグビー発展史上に一時期を画する事になったのである。試合前に各選手達に握手せられたその手は、繊細で、我々のそれよりも小さかったが、之がラグビー界に残した刺激は誠に大きく、後援した大毎の如き、勿論、特筆大書して戦況を伝えた。

「東西両帝国大学ラグビー部の誕生とその影響」

 三高出身の先輩達は、予々両大学ラグビー部創設を念願されていたが、上記プリンス観戦の実現等により愈々その機は熟し、東西相呼応して帝大ラグビー部創設の運びとなった。勿論その出現は、未だラグビー部を持たぬ私大を刺激せずにはおかなかったであろう。明治、立教、法政等次々に名のりを挙げるものが輩出した。

「京大ラグビー部創設とその状況」

 かくて今から半世紀の昔、京大ラグビー部は発足した。部長に末広教授を、キャプテンに長谷川利一郎氏を戴き、広く有望選手を物色、チームを編成したが、三高出身者が中核となった事は、当然の成行である。唯チームの団結、或は統制等に関して、谷村先輩の配慮によるものが多かったと思う。我々は唯、全員一致協力、訓練に訓練を重ねて、新チーム実力向上に努めればよかった。

 一日の練習が終った後、暗い農大グラウンドを何回となく馳廻ったことは昨日の様に思われる。さすがに寮に引き上げた時は、くたくたに疲れては居たが、我々は若かった。この疲れの内に何とも言えぬ爽快な気分となり、又明日の事を考えるのであった。

 当時我々のチームはどれ位の実力であったであろうか。戦績等はすっかり忘れてしまったが、一流チームにはまだまだであることは確実。基本的な要素、例えば身長、体重、走力、経験等一朝にして達成できるものではない。日本人はビフテキを食ベなければ、外人チームに勝てないよと言われた事を思い出す。

 然しキャプテン利一郎氏を中心に立ち上がった京大ラガーの意気は高く、団結力は強固であり、何日の日か京大に黄金時代が来るのを疑わなかった。

 そして又、我々は自分に言い聞かせた。お前達はプロではなく学生アマなのだ。試合で負けることはくやしいが、戦績が凡てではないのだと。若き青春の血を燃やし、一時何事も忘れて全力を傾け尽くすことが出来ればそれでよい。同時に我々は前途春秋に富む学生であることも忘れないで置こう。

 かくて半世紀の年月は過ぎた。

 今にして思う。当時は勉強とスポーツが両立出来たよい時代であった。我々は自由であり、多くの良友を持つことが出来た。唯此の頃、次第次第に我々の親友が減ってくるのは、誠に淋しく残念である。

(大正十四年卒 故人)

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