目次: 寄稿編 No.12 野球から入って 松村満雄

 ラグビーと私は次の事から始まります。想えば丁度六十年前の事になります。

 大正十一年春、三高野球グラウンドの固定ネットの傍で三高野球部の練習をコーチしていた処へ、馬場、渡辺、土井がやって来て、東大を落ちたが、京都で正式のラグビー部をつくるので、秋になったら一所にやってくれぬかとの申出であった。

 当時ラグビーは、ご承知のように慶応と同志社と三高しかやっておらず、三高のものは応援に出掛けたり、時にはクラスマッチをやったりして、少しはラグビーを知っていた。それやこれやで、この申出に応じて秋になって練習に参加したのが、私のラグビーとの縁の初めであった。

 三高の同級生で大正十一年に卒業したラグビーの連中は、右の馬場、渡辺、土井の外に安部、古川の五人であった。古川は始めから東大を受けず、安部だけ見事に東大入学が出来たのに、馬場以下三名はどういうわけか入試に失敗した。

 ラグビーを始めて見て、私は基礎練習をやっていないのでキックはもう一つであったが、連中がパスを落すのには驚きの外はなかった。野球では私は遊撃手であったが、楕円形をしてはいてもあんな大きな球を?めぬとは。今でも大試合でポロリとやるのを見ると、ラグビーの連中は大いに反省せねばならぬと思う。従って試合をやって見て私(ポジションは左のウイングスリークォークー)の特技は、スクラムサイドのこぼれ球や相手のドリブルの球を拾い上げて、守勢を攻勢に転ずることであった。

 大正十四年大学を出て東京の銀行に勤務するようになって、学士ラガーでよく試合をし、またラグビー協会の会計役もやり、協会主催のゲームには必ず銀行を抜け出して観戦した。殊に日本チームのカナダ遠征、カナダ、オーストラリヤ、ニュージーランドのチームの来訪の際は東奔西走した。これでラグビーとの関係は深いものになったが、昭和十一年大阪に転勤になり、協会は勿論ラグビーともこ無沙汰になり、特に十四年から二十一年迄召集を受け外地に居たので益々縁遠いこととなったが、今でも協会の名簿に顧問の所に名をつらねている。

 終りに京都大学のラグビーをどうしたら強く出来るかという問題だが、東大のポート部や京大のアメリカンフットポールのやり方が大いに参考になるのではないか。中学や高校からラグビーをやってる者ばかりでは、失礼な申し方だが所謂大和のつるし柿の集りになるのではないか。勿論子供の時からラグビーをやってる者にも、精神力も体力もすぐれている者もいるだろうが、相撲部や柔道部の選手或は野球部の者でもよい、大いに人材を集めることだ。そしてシーズンオフには態々菅平等に行く必要はなく、バスケットポールでもよい、水泳でもよい、或は野球の練習で三塁を守らせて、大いにノックで強弱、前後左右に打ってもらい反射神経を鍛える事が得策と思う。

 右京都大学ラグビー部が六十年を迎えるとの事で感想を述べ、念願として元野球選手だった私なりの、京都大学ラグビーを往年の強力なものにする方策を述べた次第です。

(大正十四年卒)

前の記事へ このページの先頭へ 次の記事へ