目次: 通史編第一章 京大ラグビーの始まり

(1)”神代”といわれた時代

 京都大学ラグビーは、大正十一年(西暦一九二二年)に、京都帝国大学学友会運動部の一つとして承認された。この年を京都大学ラグビー部の”紀元元年”とすると、昭和五十七年(一九八二年)をもって創立六十年を迎えたことになる。
 しかし、京大ラグビー部の渕源をたどると、さらに十年近くさかのぼらねばならない。学友会の部承認以前の、京大ラグビー・クラブの時代がある。その最も古い記録として、大正三年(一九一四年)十一月十日に京都一中(現洛北高校)と対戦して0−11で敗れたことが京一中・洛北高ラグビー部史(創設60周年記念)に掲載されている。京大ラグビー部が誕生するまで、いわば”先史時代”の京大ラグビーの足跡を日本ラグビー史の全体の流れの中でたどってみよう。

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日本ラグビーの始まり

 日本のラグビーフットポールは、明治三十二年(一八九九年)慶応義塾の語学講師、英国人エドワード・ブラムエル・クラーク(当時二十五歳)がケンブリッジ大学時代の友人、田中銀之助(実業家)の協力を得て、慶応の学生たちを直接指導したことによって始められたことは広く知られている。クラークと田中の二人によってラグビーのフェアプレーの精神とアマチュアリズムが植えつけられたことは、日本のラグビーにとって幸せであった。
 その後十年、ラグビーは慶応の学内にとどまったが、明治四十三年(一九一〇年)、関東の諸大学に広まるより前に東海道をひと飛びして京都の第三高等学校(旧制)に移り、日本第二のラグビーチームが誕生した。慶応ラグビー部の副主将、真島進(FW)が橋渡ししたもの。真島の妹は三高生、堀江卯吉(のち真島姓)と許婚の関係にあった。真島が夏休みに郷里(大阪)へボールを持ち帰ったとき、堀江と友人の三高生数名がキックの相手となりラグビーの手ほどきを受けた。場所は糺の森(下鴨神社境内)と伝えられる。堀江は三高の有志を集め、明治四十三年九月二十三日(桃季皇霊祭)に三高の裏グラウンドでラグビーフットボールの練習をしたのが三高ラグビーの始まりである。

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京都で広がったラグビー

 三高に伝わったラグビーは、たちまち京都で広まる。翌四十四年十一月、同志社大学に、さらに翌四十五年には同志社普通学校(通称普通部、大正五年に同志社中学と改称、現同志社高校)、京都府立第一中学校(現洛北高校)にラグビー部が誕生した。関東では、大正七年(一九一八年)に早稲田大学でラグビーが始まるまで二十年近く慶応の″孤立”が続いており、日本ラグビーの基盤は京都で固められていった。
 京都一中は三高と隣り合わせに位置していた。明治四十五年一月十日に三高グランドで行われた慶応対三高の第二回対戦は、京一中四年生、香山蕃の目を釘づけにした。香山はこの時の思いを自著「ラグビー・フットボール」の中で大要次のように述懐している。
「初めて三高の運動場で三高と慶応義塾との対抗試合があった時、偶然そこに居合わせて、その妙な恰好をした球の試合を実際に見て、初めてラグビー・フットボールが非常に愉快なものであることを知り、少なくとも自分の心身をぶちこむ運動競技こそはこれだこれだと思ったのであります。」
 ラグビーに魅せられた番山は、三高からの呼びかけもあって、五年生になってチーム編成に着手、学友たちを勧誘して回った。香山の一年下のクラスで、ボート部員であった谷村敬介も、香山の勧誘によって京一中ラグビー部創設のメンバーに加わった。

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京大ラグビー部誕生の芽

 京一中、洛北高ラグビー部史の「ラグビー部創設時代を思う」の中で谷村は次のように述懐している。
「京都一中のラグビー部創設者である香山蕃は当時ボートの選手であったが、明治四十五年一月、三高校庭にて行われた慶応対三高のラグビーの試合を観て、この男性的スポーツの面白さに、すっかり魅せられてラグビーのとりこになった。彼の運命、生涯をラグビーに捧げる運命はこの時に決まったといってもいいであろう。彼は一中にラグビーのチームをつくりたく、ポートあるいは草野球等の遊び仲間にラグビーをやるよう熱心に説いた。しかし、ラグビーを全然知らない者ばかりであったから誰もすぐには応じなかったが、その執拗な勧誘に根負けして、ついには承諾せざるを得なくなった。四年生の私もその一人であった。・・・当時生徒の大部分がラグビーには無関心であり、ラグビーをやる者はわずか十五、六名と少数であったにかかわらず学校がラグビー部の新設を承認したことは驚くべきことであった。おそらく香山が新たに赴任された森外三郎校長(のち三高校長)に直訴した結果だと思う。校長の二男の二郎も香山とは銅駝小学校の時から親しい友人であった関係から、校長に対しても遠慮なくものを言うことができたのであろう。森校長は英国に留学中、国技であるラグビーの試合を観て、それが紳士のスポーツであることをよく理解しておられたようである。森校長の教育方針は自由主義であって、若い中学生を紳士として扱われたのだから、この方針からしても紳士のスポーツであるラグビーを新たに部にすることには積極的になられたのだと思う。」
 京一中チームは初の対外試合を六月五日、三高グラウンドで同志社普通学校と行い、23−0で敗退した。主将は香山(五年)。のちに三高、京大で活躍、名レフェリーとしても名の高かった竹上四郎(五年)や谷村(四年)らがこの試合に出場している。谷村が京都大学ラグビー部の創設者となり、香山が東京大学にラグビーを植えつけ、さらに後年、香山が谷村や望月信次(京一中出)の委嘱により京大ラグビー部の指導を引き受けて”京大黄金時代〃を現出させたことを考えれば、京大ラグビー部誕生の芽は、実にこのとき生まれたと言うべきであろう。

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記録に現れた「京大」の名

 京都にはこのほか、三高の誘いに応じて錦華殿倶楽部が作られたのをはじめ神陵倶楽部、弥栄倶楽部、天狗倶楽部などのクラブ・チームが続々と生まれた。大正三年には京都市立第一商業学校(現・西京商業高校)にラグビーチーム白狼団=ホワイトウルフ(のち京一商ラグビー部)が誕生した(大正四年ともいわれる)。
 錦華殿倶楽部は西本願寺の連枝、大谷光明が英国留学から帰って一門の大学、中学の学生・生徒らを集めて急造したチームで、その後、宗門の反対によって”京の夢”と消えた。神陵倶楽部は大正三年ごろ三高ラグビー部が借金返済のため対外活動ができなくなったので、同志社から三高に進んだ谷村順蔵(敬介の兄)や京一中から進学した竹上四郎らが中心となって、それに三高から京大に入った先輩や京一中の後輩らを交えて作った混成チームで、三高ラグビーの命脈をようやく保っていた。同倶楽部は、三高再起後も三高とそのOBの連合チームとして、三高が学制改革で消滅するまで機に応じて編成された。弥栄倶楽部は京一中や同志社普通学校卒業生の混成チームであった。これらのチームが、それぞれ対抗戦を行い、あるいは時に慶応チームの西下を迎え、または神戸外人(KRAC)を相手に試合をしていた。
 京大の名が出てくるのも、このころからである。同志社ラグビー部創設時代のメンバーの一人、大脇順路の回想文によると、大正二年(一九十三年)にはすでに「京大・三高連合軍」の名が見えている。三高とそのOBの京大生をもって構成するチームが、同年秋、大阪豊中グラウンドで開かれた大阪毎日新聞社主催の日本オリンピック大会(十月十七日から三日問)のエキシビションマッチとして、同志社チームと対戦することが予定されたが、実現しなかった。関西ラグビーフットポール協会史・資料によると、この日本オリンピック大会で「ラグビーは最終日十九日の最終番組であったが、降雨のため中止、オールドボーイの紅白模範競技を三十分間実施した」とある。京大・三高だけで連合軍を編成できなかったというのが真相のようである。
 また同志社大学ラグビー史資料によると、大正四年(一九一五年)一月二十三日には新島襄二十五年追悼試合として、同大グラウンドで京大・三高連合軍と対戦、同志社チームが15−0で勝ち同大創部以来初めての勝利をおさめている。さらに同年十一月十六日には京一中クラブと同大グラウンドで対戦、3−0で同志社が勝っているが、この京一中クラブは、京大・三高・一中連合軍であった、としている。

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大正三年に京大ラグビー倶楽部あり

 大正三年(一九一四年)には京大単独の、京大ラグビー倶楽部が誕生している。三高ラグビー選手であった者やラグビー経験者によって結成されたもので、同年十一月十日、三高校内大会で京一中と対戦、0−11で敗れている。京一中の大正三年度チームには、京大ラグビー部創設のさい、谷村とともに尽力した長谷川利一郎(四年)がCTBとして活躍していた。「京一中・洛北高ラグビー部史」、京一中・洛北高校同窓会発行の秦乾太郎著「獰猛の意気」にこのことが記されている。しかし、その詳細は不明である。
 大正五年一月十二日に三高グラウンドで神陵倶楽部と慶応が対戦した試合(20−0で慶応勝ち)の、新聞の説明では、神陵倶楽部を「京一中、三高、京大の選手にて組織したもの」とある。

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天狗倶楽部の登場

 京大ラグビー倶楽部の記録は、暫く途切れる。代わって天狗倶楽部の登場である。天狗倶楽部は、京大ラグビー部にとってその誕生の母体ともなったチームなので、少し詳述しておきたい。
 京都一中ラグビー部創設者の香山は、大正二年三月に中学を卒業して、同六年三高に入学するまで四年間の浪人生活中、その三年目(大正五年)岡崎に下宿したとき、京大柔道部の大御所、安達士門と知り合った。安達は第六高等学校(旧制)五年、京大八年という豪傑で、彼のもとには安楽兼道と六高出の柔道部の猛者連中が集まってくる。「この豪傑たちでラグビーチームを作ったらどんなに強いチームができるか」と香山は考えた。
 ちょうどそのころは、ストックホルム・オリンピック(一九一二年=明治四十五年)の陸上競技に日本が初参加、その翌年にはパリでオリンピック復興記念祭が開かれて五輪旗が発表されるなど、年ごとに近代スポーツヘの関心が高まってきていた。「みんなで屋外スポーツをやろう」という香山の提案に安達らは全員賛成、天狗倶楽部が結成され近くの平安神宮前の”桜の馬場”(今の岡崎公園)でボールが蹴り始められた。香山は「思い出のまま二十年」の中で次のように述べている。
「京都大学の柔道部の重鎮だった安達士門の所に集って来る安楽(兼道)君を始め六高出の柔道部の連中と私達が知り合いになり、そのころオリンピック競技が行われようとしたころで、その人達と私は色々の戸外スポーツをやろうと言う趣意で、天狗倶楽部と言うのを造ったのでした。その時戸外運動の一つとしてラガーもやろうということになって、私がその当時三高を卒業して京都大学に入っていた旧選手達を倶楽部員に紹介して、三十人以上のラガーのチームが一つ出来上がったのであります。そのチームにラガーを知って居る人は三高卒業生の国光君を始め、滝本君、谷村順蔵君、堀井君、宇野延次君などでした。他ははとんど素人ばかり、その代り柔道の段を合計すると幾十段になったくらいの剛の者ばかりでした」
 受験浪人の香山が大学の先輩たちをコーチして出来たチームで、後輩の京一中OBを加えて試合することもあった。のち竹上四郎、早川荘一郎、吉田義人らも参加している。
 天狗倶楽部は大正五年から八年にかけて京一中、三高、同志社、あるいは神戸外人(KRAC)などと対戦、同志社混合軍と引き分け(大正七年十月十二日)、神戸外人に三敗のあと二勝(大正五年十二月〜八年十二月)などの戦績をあげている。

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岡山で「京大対三高」の試合

 天狗倶楽部はクラブチームであるのに、世間では京大学生のチームであるように誤解されていた。京都の天狗倶楽部がいつの間にか京大天狗倶楽または帝大天狗倶楽部としてまかり通るようになっていった。天狗倶楽部の大部分の選手が京大生であったからである。
 例えば、天狗倶楽部が初の対外試合として行った大正五年(一九一六年)十二月二十三日の神戸外人との試合(14−3で神戸勝ち)の新聞評(大阪毎日)をみても「京都天狗倶楽部は京大学生により組織せられ、中学、高等学校時代の蹴球選手をも多数含めることとて、チーム創立以来未だ数ケ月を経ざるも既に京都の各学校とはしばしば練習試合をなし、相互連絡もとれおることなりしが、対外競技については今回はじめてのこととて経験浅く・・・」とある。
 同チームが大正六年の春、三高チームと帯同して岡山遠征をしたときの新聞の扱いは、「京大対三高」のラ式フートポール試合となっている。
 この岡山遠征は、安達らの母校、六高をはじめ岡山の各学校にもラグビーを広めようと計画されたもので、中国体育会主催、中国民報(のち山陽新報と合併、現在の山陽新聞)後援によって行われ、東山グラウンドで午前午後の二回試合をしている。山陽新聞百年史には、同社事業として「大正六年三月四日、京都帝大と三高のラグビー部員を招き、東山コートで岡山初のラグビー大会を催す。なお三日問コーチを行う」と記されている。京大ラグビーチームとして新聞に掲載されたのは初めてのことであり、関西において、地方でラグビー普及のための試合が行われたのも、これが最初である。
 中国民報は当時、スポーツ事業に力を入れていた。天狗倶楽部の山崎と親しいものが中国民報にいて、企画が実現した。同紙は三月に入るや、この遠征を連日のように大きく紙面をさいて報道している。当時の中国民報は現在、わずかに山陽新聞社に保管されたものがあるに過ぎないが、山陽新聞社の好意により、同社保管の原紙から関係記事のコピーを入手することができた。貴重な資料なので、その概略を紹介しておきたい。

大正6年3月4日岡山、東山グラウンドで行われた
京大(天狗クラブ)対三高戦のときの記念撮影
(前列) 左から坪内、宇野延次、長屋吉彦、原田左近、安藤明道、安達士門、真鍋左武郎、鈴鹿隆和、宮野
(中列) 国光郁文、二人おいて吉田等、安楽兼道、佐伯信男、早川荘一郎、芦沢利明、一人おいて浜田
(後列) 香山蕃、笠原二郎、一人おいて和田一、鶴原浩二、一人おいて新保禧三郎、奥山市三、一人おいて伊東充高、谷村順蔵、一井新次、二人おいて山県。

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中国民報のキャンペーン

 三月一日付の中国民報は「蹴球(フートボール)競技大会・主催中国体育会」の社告と「ラ式蹴球競技の現状」を掲載している。社告は「中国体育会は来る五月初旬中国体育競技大会を開くに先立ち、団体的戦闘遊戯として最も理想的特質を有する英国国技ラグビーフートボールを世に紹介すべく三月四日(日曜日)京都帝国大学及び第三高等学校蹴球部選手を招聘し午前午後の二回にわたり本社東山運動場にて,これが試合を行うこととし、同時に一般に普及せしむるため特に四日以後数日間京大選手二名に依頼して各学校生徒に実地指導を乞う事としたれば、これによって当地運動界にラ式蹴球流行の新機運を造らるべきを疑わず」と述べている。
 また「ラ式蹴球競技の現状」の記事(七十六行)は、日本ラグビーの誕生から慶応の現況に触れたあと「今回中国体育会が招聘した京大、三高の両チームは現在我が国における有数な強チームであって三高は・・・本年一月の関東遠征には横浜外人チームを十一対零にて打破し翌日慶応チームとの試合には六対六のセームという好成績で凱旋し去月十日には神戸外人チームを二十二対零(実際は22−3)の大スコアをもって敗北せしめ、ここに多年の宿望を遂げたのである。京都大学チームは三高出身者を主として組織し神戸外人あるいは三高チームと常に試合を試み好成績を得ている・・・」。このあと同志社大学、京都一中、同志社中学などについて記し「概略以上述べたのが我が国ラ式蹴球界の現状であって京都はその中心たるを失わない。慶応は京都諸学校の先輩であるけれども、ただ一つの東京におけるチームであるから、わずかに横浜外人チームと、隔年関西遠征をする以外東部において活躍する機会がない。後進たる京都地方にラ式蹴球の中心を見るに至ったのも止むを得ない次第である」と結んでいる。
 三日付では「ラ式フートポール」の競技場、選手の各ポジション、職務、レフェリーの権限などを図入りで解説。選手たちが盛んな歓迎を受けつつ宿舎の「三好野花壇」に入ったことを報じている。その歓迎ぶりは、天狗倶楽部の谷村順蔵が「豪華な旅棺に泊まり、グラウンドまで人力車をつらねて往復し、見世物扱いには恥ずかしい思いをした」と述懐しているほどであった。

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FW前衛、HB遊撃、TB中堅、FB後衝

大正6年3月4日岡山、東山グラウンドで行われた京大(天狗クラブ)対三高戦のときの記念撮影 (前列) 左から坪内、宇野延次、長屋吉彦、原田左近、安藤明道、安達士門、真鍋左武郎、鈴鹿隆和、宮野 (中列) 国光郁文、二人おいて吉田等、安楽兼道、佐伯信男、早川荘一郎、芦沢利明、一人おいて浜田 (後列) 香山蕃、笠原二郎、一人おいて和田一、鶴原浩二、一人おいて新保禧三郎、奥山市三、一人おいて伊東充高、谷村順蔵、一井新次、二人おいて山県。

 四日の試合は、「旧慶大首将井上氏審判」によって午前十時四十分からの第一戦と午後三時五分からの第二戦と二回、二十五分ハーフのゲームで行われた。結果は7−11、0−12で二試合とも京大が敗れた。翌五日付の中国民報は社会面(第五面)の半分以上をつかって「壮快なりし蹴球競技」の模様を報道している。この試合が岡山地方へのラグビー普及が目的であっただけに、「医専、六高、師範、岡中、県商その他官、公、市、私立学校生徒は寒風をいとわず早朝より来観し、場内には来賓席のほか各学校観覧場割りをして混雑を避けた」ほどの盛況。試合経過を百行近くも詳細に報じている。
 例えば、第一ゲーム後半については「十一時十分、大学方のキックオフにて後半始まる。最初中央線付近にもみ合いしが、大学方香山のキックに次ぐに宇野、安楽の見事なる突進あり、特に安楽の突進はすこぶる有効にして、ために大学方大いに努めしが三高方後衛坪内またよくタックルして惜しくも止みしが、老練なる大学方よく奮闘して三高の精鋭を避け、暫く敵陣を圧し一途に好機を待つうち老かいなる国光ボールを握るや眼前の敵方をチャームして見事にドロップキックにて四点をおさむ。大学方これに力を得て奮闘数分、更に国光、合田キックして攻めしが三高方また巧妙なるドリブルにてこれを撃退し鶴原ボールを得て長駆トライす。次いでゴールとなり五点を得、キックオッフののち三高方暫く危険状態に在りしが、笠原敵失に乗じてドリブルに出で正に敵塁を突かんとして止み、のち大学方キック、ドリブルにて長駆三高方の堅塁に迫り田中の突進せるボールを谷村(順蔵)得てトライし、更に三点を得。時に二十二分なり。国光のプレースキック、ゴールとならず、しかして大学方安楽、安達の奮励により老練なる滝本、和田よくボールを得て突進し、しばしば三高方を圧して策を施す所なからしめしが、三高方の奮励により漸くこれを防ぐを得て遂に事なくしてタイムアップとなる。時に午前十一時三十五分なり、かくして十一対七点にて老兵たる大学方惜しくも破れたり・・・」と記している。
 FWを前衛、HBを遊撃、TBを中堅、FBを後衛と訳しているが、残念なことは、両軍メンバーを記載した個所が破損していて、両チーム全員の名前は不明である。しかし、試合経過の中ご出てくる選手名、また別掲の記念写真(「協会五十年史」に「大正六年、三高対天狗倶楽部」の写真として掲載されている)を参照して補正すると、岡山の試合の両チーム出場者は次のメンバーであることが確認できる。
 ◎京大=〔FW〕安達士門、安楽兼道、原田左近、早川荘一郎、谷村順蔵、渡辺、田中、宇野廷次、〔HB〕滝本左近、和田一、〔TB〕山崎、鈴鹿隆和、国光郁文、香山蕃、〔FB〕合田新
 ◎三高=〔FW〕奥山恵吉、長屋吉彦、吉田斎(のち下村)、鈴木(一井)新次、芦沢利明、伊東充高、安藤明道、浜田松吉郎、官野省三、〔HB〕真鍋左武郎、新保禧三郎、〔TB〕鶴原浩二、笠原二郎、佐伯信男、山県重郎(のち村川)、〔FB〕坪内真文(二試合行われたため、記念写真の三高側メンバーは十六人になっている)
 京大側のメンバーは、京大柔道部の選手と三高ラグビー部OBが大半を占め、香山、鈴鹿、和田の三名が京一中OBであった。
 試合のあと、京大の国光、滝本、田中、安達、山崎の五人が残って、三日問、六高、師範、岡中、関中、県商の各運動部主任教師と生徒を集め、練習マッチをさせながらラグビーフットポールのコーチをしている。しかし、これらの努力も、結局は岡山地方にラグビーを植えつけることなく終わった。
 同年十二月二十二日に、天狗倶楽部が神戸・東遊園地で神戸外人(KRAC)と対戦(20−0で神戸外人勝つ)したときの新聞の公表も京大天狗倶楽部であった。大正七年三月二日の同チームとの対戦(3−0で天狗倶楽部の勝ち)、また同年十月十二日、同志社グラウンドにおける同志社混合軍との対戦(0−0)も、京大天狗倶楽部または帝大天狗倶楽部と表現されている。天狗倶楽部は京大のクラブのように思われていた。

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日本フートボール大会に京大出場

 大正八年(一九一九年)一月の第二回日本フートボール大会には「京大」が出場している。この大会は大阪毎日新聞社が主催して行われていたもので、現在、隆盛をきわめている全国高等学校ラグビー大会、また一時は京大ラグビー部が主催したこともある全国高等専門学校ラグビー蹴球大会(昭和二十四年に消滅)の前身。関西でのラグビー普及に尽力していた杉本貞一をリーダー格とする慶応や三高、同志社のOB連中が、大正五年から始まった中等野球大会に示唆され、大阪毎日新聞社にいた同志社OBの鈴木三郎、運動課長の西尾守一らと相談の末、奥村信太郎社長に直訴して実現した。第一回大会は大正七年一月に開催された。
 前年の暮(大正六年十二月)大阪毎日新聞に掲載された社告は当時の学生蹴球界の状況をよく示している。「野球を迎えてその技の妙を採り、これを体育の上に善用せるわが学生がフートポールに無関心なるべきはずなし。果然フートポールの技は今やようやくわが運動界にその頭をもたげんとしつつあり、しかれどもフートポールをポピュラライズし、かつこれに対する感興を高調せしめんがためにはなお一段の努力を要す。本社がここに日本フートポール優勝大会を主催せんとする、即ちこの要請せられたる努力の一端たらんとするに外ならず」
 大会はサッカーとラグビーの両方が行われたが、ラグビーの学生チームとしては、当時関東では慶応のみ。あとは三高、同志社大、同中学、京都一中、京都一商の京都のチームだけである。年齢、体力で区別することはできず、全チームに呼びかけ、学校の事情で参加できなかった京一中を除いて、全慶応、三高、全同志社、京一商の四チームが参加して行われた。慶応は棄権、三高に勝った全同志社が京一商を破って優勝している。この審判委員の中に、京大、佐伯信男の名がみえる。

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同志社中と異例の延長戦

 その翌年の第二回大会(大正八年一月十八、十九、二十六日の三日問豊中グラウンド)に京大チームは新たに参加している。この第二回大会の出場チームは慶応、同志社大学、同志社中学、京都大学、三高、京都一商の六チームであった。京大は大会第一日(一月十八日)の第二試合で同志社中学と対戦した。メンバーは、大毎によれば次の通り。

FW 安藤
吉田(のち下村)
宇野
藤井
竹上
横山
山崎
安達
HB 難波(のち吉田)
堀井
TB 早川
佐伯
笠原
渡辺
FB

 チームは、三高出のラグビー選手(安藤、吉田、宇野、竹上、雑波、堀井、佐伯、笠原、森ら)と柔道部の選手(横山、山崎、安達、早川ら)で編成されている。試合は大接戦で、規定の時間を過ぎても勝敗がつかず、ラグビー試合としては異例の十分問延長という処置がとられたが、結局ケリがつかず、3−3の引き分けに終わった。両軍勝者の扱いである。試合経過を大阪毎日は次のように報じている。
「(レフェリー松岡正男=慶応OB=、タッチジャッジ杉本、大久保)十二時二十五分試合開始。少時センターにて争いしが、同志社奥村より直ちにパッスし、鋭きキックを京大フルバック逸してたちまち京大陣5ヤード近くに攻め込まれしが、同志社にペナルティーあって京大猛然盛り返し、同志社の陣探く進み、吉田初めてトライを得てハーフタイム。後半、同志社回復につとめ、京大の疲労に乗じ常に優勢を持し、25ヤード線に迫り、十分にて原槇トライを得て同点となる。京大方はフォワードよりパッスせる球を佐伯取るや得意のランニングを期して猛進せるを、同志社伊藤巧みなるタックルに阻み、一進一退互に危機を脱しつつタイムアップとなるも勝負つかず、規定により十分間延長して最後の猛襲に移りしが、両軍力戦して遂に十分を経過せるをもって両者を勝者と認め、さしもの激戦を終わる」
 京大は、このあと棄権してしまった。慶応も同志社大学を6−0で破ったあと棄権したため、京一商に18−0で勝った三高が同志社中学と決戦を行い、三高が24−0で勝って優勝している。この三高チームは、谷村敬介が主将のシーズンで、香山とともにCTBとして活躍、また京大ラグビー部創設期のメンバーとなった岩田岩堆、梁源容、安在鶴、滝口純、鈴木茂らが出場している。大会審判委員には、三高OB(京大)佐伯信男、京大安達士門、武井群嗣が選ばれている。なお注目すべきは、京大チームと対戦した同志社中学など、仮名を使って出場したものがあったことだ。当時、ラグビーに対する理解が得られず、野蛮なスポーツとみられ、親には内密で選手をしていたものもあった。

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オールホワイトと京大ラグビー・クラブ

 この大正八年に、慶応OBの田辺九萬三、杉本貞一、脇肇らを中心にして、同志社など地元OBらが集まり「関西におけるラグビーの発展・普及」を主眼として、関西ラグビークラブを創設した。チーム名を「オールホワイト」と称した。この発起人に京大の竹上四郎も名を連ねている。「オールホワイト」は、勃興期の関西ラグビー界にあって、各チームの指導に当たり、多大の貢献をしており、西部ラグビー蹴球協会(現関西ラグビーフットボール協会)設立の基盤ともなった組織であるが、オールホワイトは同年十二月十四日に京一中グラウンドで京大クラブと対戦(9−0で京大クラブ勝つ)している。この試合について、大阪毎日の記事をみると、オールホワイトがチーム結成から日が浅かったためか「神戸オールドボーイス」と書かれ、新聞の見出しは「京大・神戸ラ式蹴球」となっている。レフェリーは香山。
 試合経過は「京大方谷村、竹上、長屋ら巧みなるキックをなし、五分にして敵の左翼へ深く攻め、早川更に突進、トライをなし、後半…早川見事パッスを受けてトライしたれば、神戸方躍起となって攻め立てしが京大竹上またもトライをなし、九対零にて京大方の勝ちに帰し、午後四時閉戦」とある。
 大正九年秋の記念写真をみると、1920K.I.U(京都帝国大学)と書かれており、名実ともに京大ラグビー・クラブが存在していたことを物語っている。写真のメンバーは、早川荘一郎、吉田義人、藤井清士、安藤明道、長屋吉彦、横山亨吉、山崎英次郎、竹上四郎、吉剛斎、谷村敬介、岩田岩雄で、このほか佐伯信男、安達士門、森二郎、新保祷三郎らがいてメンバーができたという。
 天狗倶楽部の記録は、大正八年十二月二十日神戸・東遊園地における神戸外人との試合(6−0で天狗勝つ)をもって姿を消している。

大正8年12月14日、京大クラブ対オールホワイト戦(三高グランド)のタイトスクラム

京大クラブ対オールホワイト戦(大正8年12月14日)における谷村敬介(左端)の突進

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