目次: 通史編第一章 京大ラグビーの始まり

(2)京大ラグビー部の創設

 関東では、慶応につぐ第二のチームとして大正七年(一九一八年)十一月に早稲田大学に蹴球部(大正十三年ラ式蹴球部、昭和四十三年ラグビー蹴球部と改称)が誕生した。創設期のメンバー井上成章(主将)、西村聡らは同志社中学出身であり、国光素介は三高・京大・天狗倶楽部で活躍の国光郁文の弟。また練習をはじめたときに使ったポールは同志社から送ってもらった古ボールであるなど、京都のラグビーと緑が深い。対外試合の第一戦は翌八年一月七日に、慶応との定期戦のため上京した三高を戸塚球場に迎えて対戦(15−0で三高勝つ)している。当時、早慶両校は野球のもつれから明治三十九年来”不戦”の時代が続いており、対戦相手がなく、部の発展はさまたげられていた。

香山から谷村への要請

 三高を卒業した香山は、大正九年(一九二〇年)東京大学に入学、その翌年には、東大にラグビー・チームを組織した。関東では、慶応、早稲田に次ぐ三番日のチームである。
 香山は、かねがね東大にラグビー・チームを作って関西に遠征して、東西両帝大の対抗戦を行いたいと考えていた。そこで、大正十年春、京大の三年に進んだ谷村敬介に対して「東大にラグビーチームを結成するから、京都大学にも早くつくって、東大と京大との定期戦を行い、日本のラグビーの健全な発展と普及に貢献しようではないか」と強く要請した。谷村はその熱意にひかれて「望ましい」と、承知した。
 香山と谷村が、ラグビーの健全な発展を願う、その共通の土台となっているものの一つに、神戸外人クラブ(KOBE REGATTA& ATHLETIC CLUB=KRAC)に学んだフェアプレーの精神とアマチュアリズムがある。慶応がラグビーをはじめたとき、その相手が横浜外人クラブ(YOKOHAMA COUNTRY & ATHLETIC CLUB=YCAC)であったように、京都各チームの相手として、指導的役割を果たしたのは神戸外人クラブであった。

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神戸外人クラブに学んだこと

 神戸外人クラブは明治三年(一八七〇年)に設立され、明治三十五年(一九〇二年)に横浜のYCACとインタポートマッチを行った。これが関西最初のラグビー試合であった。明治四十一年二月には慶応チームを東遊園地に迎えて、日本チームと最初の試合をしている。三高、同志社また天狗倶楽部などもしばしば神戸の東遊園地へ出かけて神戸外人クラブと試合をして、技を練るとともに、ラグビー精神やマナーについて教えられることは多かった。いかに激しいゲームをやっても、ノーサイドの笛とともにお互い手を握って健闘を祝し合う。シャワーを一緒に浴びたあとのレセプションで楽しく語り合い、歌を合唱して再会を約して別れる。
 香山、谷村らも神戸外人との試合や、試合後のミーティングを通じてこのノーサイド精神とフェアプレーについて多く学んだ。とくに二人は、同チームのハーフ団、エブラハム兄弟と親しくしていた。谷村は「協会五十年」への寄稿「大正年代の関西ラグビー外史」の中で、次のように書いている。
「そのころ、神戸外人クラブの存在は大きかった。慶応と同志社とは、ともにこれに勝つのが目標だったし、三高もまた然りであった。神戸外人クラブとの試合は関西唯一の芝生のグラウンドで思いきってプレー出来ることが楽しく、そのうえ試合後のご馳走は学生にとっては大変な魅力であった。ベニー・エブラハム(兄)と特に親しくなった。試合後彼は三高の反則プレー、特にスクラムのオブストラクションを非難して注意してくれた。この種のプレーは当時一般に行われていただけに、大いに考えさせられた。試合後、彼の家に初めて泊まったとき、翌朝早々と叩き起こされた。何事かと驚くと、散歩に行くのだと言われ、神戸の裏山を歩き回った。この散歩が彼の日課であることを知って、社会人としての多忙な日を送っている彼が、なぜ試合であれはど元気で活躍できるかの秘密を知った。彼によってラグビー精神と平素のトレーニングの必要さを教えられた」
 本間重夫著「紅もゆる丘の花」の中でも、谷村は次のように語っている。
 「私が三高当時、神戸外人チームとしばしば試合を行って互いに親交を持っていたが、吾々はあらゆる機会に外人スポーツマンから真のスポーツ精神を訓えられた。この体験は極めて貴重な精神教育となり、今もなお私の心に生きている。彼等は勝利主義ではなくベストを尽くすスポーツ精神に徹している」
 香山も池口康雄著「近代ラグビー百年」の中で「(エブラハム)兄弟はロンドン郊外のダルウィッチというパブリック・スクールを卒業して来たばかりで、英国の学生生活やケンブリッジ、オックスフォード大学のあり方、クラブラグビーのことなどいろいろな話を聞かしてくれた。そして彼らの話を聞いていくうちに、英国人のスポーツの考え方が当時の日本人の勝つことばかりにこだわるスポーツ観念と異質なものであることを痛感した」と語っている。香山と谷村が、「東大・京大の定期戦によって日本のラグビーの健全な発展と普及に貢献しよう」と語り合ったとき、この神戸外人から学んだ”フェアプレーの精神”への共感があった。

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京大ラグビー・クラブのチームづくり

 香山の要請をうけて、谷村は九月早々からメンバー編成にとりかかった。しかし、ラグビー選手経験者が少なく、なかなか目鼻はつかない。香山に試合中止を申し入れたが聞き入れない。秋には京都へやってきて「約束を破るとはもってのほか」と責めた。
 谷村はこの一言に返す言葉もなく「約束は守る」と答えた。京都一中や三高でラグビー選手をしたもの、ラグビー経験者をさがし出した。京一中で谷村の後輩に当たる長谷川利一郎(四高出)が協力した。長谷川は、京一中ではプレヤー(TB、FBで活躍)であるとともにマネジャーをも兼ねていたように、特殊な渉外力を持っていて、人材を集めてきた。京一中時代に長谷川の一級上にいた藤尾誓や一年後輩の木村潔らである。木村と同じ医学部で陸上競技の仲間であった内田も引き入れた。ようやく十一月末にはチームの体裁を整えて、三高グラウンドで三高の選手たちと共に練習を始めた。当時の三高は、慶応、同志社と天下の覇を争う強力なチームであった。谷村は三高の主将、渡辺宇志郎に頼んで、練習の相手をしてもらった。
 東大はバックスが優勢と思われるので、その対抗手段としてフォワード強化に力を入れた。フォワードは割合急造できる。そのころフォワードはバックスに比べて余り重視されていなかった。セカンドローは押しとラインアウトの球を取ればよいと考え、三高時代は野球をやっていて、選手経験はないが、長身の勝島喜一郎と北尾をセカンドローに置き、バックローには三高時代の選手、巨漢奥山恵吉、滝口純を配した。練習ではスクラムとラインアウトに重点を置いた。

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部の創設、大学に反対される

 この間、谷村は大学当局に対して、マネジャー役の長谷川とともにラグビー部創設を願い出た。しかし、当時行われていたポート、柔道、剣道、弓道、野球、庭球(軟式)など東大との対抗試合は柔道を除いて負けてばかり。このため「京大は東大の下風に立っていると世間から見られている。また東大に負けるような部をふやすことはできない」と強く反対された。それでも、どうにか「京大クラブ」の存在を認めてもらい、来年度には正式に学友会の運動部として承認を得ることについても、暗々裡に了承してもらった。
 しかし、まだ学友会に所属していないので、費用が出ない。多くの選手に無理に頼んだのだからというので、ユニホームの費用は谷村が負担した。靴は各自自弁となった。早稲田が大正七年に京都の水野運動具店に頼んで作ったジャージーの値段が一着二円五十銭というから、谷村の負担は当時としてはかなり大きな金額であったろう。ユニホームの色は、勝島の記憶では白であった。大正六年に天狗倶楽部によって蒔かれた種子が、やがて京大ラグビークラブの芽生えとなり、それが大地に根を下ろして、京大ラグビー部誕生を確実なものとしたのは、このとき三高グラウンドに集まって、対東大戦を目標に練習を開始した谷村を中心とする若者たちの団結であった。
 チーム編成後、最初の試合は、谷村、勝島の記憶では、三高グラウンドで京一商と対戦したというが、その記録は残っていない。このあと十二月二十四日に三高グラウンドで大阪高商(現大阪市立大学)と対戦している。大阪高商ラグビー郡は、大阪にできた最初のラグビー・チーム。京一商出身者が中心となって大正八年に創設(九年、校友会の一部に)、同十年二月の第四回日本フットボール大会には慶応予料、関西学院(クラブ・チーム)とともに出場している新興チーム。京大と大阪高商との試合で京大は6−9で敗れている。
 大阪毎日の記載では「東大佐伯氏の審判、開戦二分間で大阪の植木、中央よりトライし、続いて八木パッスを受けて巧みにトライし、前半を終わった。後平に入り京大長谷川、大阪吉岡ともにトライし一進一退の形勢を示し、閉戦前に京大谷村トライしたが結局九対六で大阪方の勝ちとなる。閉戦五時」とある。明けて大正十一年(一九二二年)一月七日にも同校と再戦、このときは「京大勝島まずトライ」して3−0で押し切って勝った。

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東大と最初の対戦は敗れる

 関西遠征の東大は、一月八日にオールホワイトと対戦して、11−0で勝ち、対京大戦に臨んだ。最初の東西両帝大のラグビー試合は大正十一年一月十日午後三時十五分から三高グラウンドで行われた。レフェリーは京大OBの竹上四郎。大毎の記載によると「前半両軍一進一退。東大香山のトライ成功してゴール。京大もしばしば肉薄せんとしてドロップアウトとなりて成らず。後半京大の陣形やや乱れるに乗じ、東大鶴原二十五ヤードラインから単身敵を縫うてトライ、ゴール。閉戦間際鶴原またもや敵右翼にトライし、結局十三点を得て見事勝ち、午後四時二十分閉戦」とある。
 この第一回戦で京大はノートライに終わり0−13(0−5、0−8)で東大に一歩譲る結果となった。練習期間が短く選手層の厚味に欠けていたが、急造チームとしては大いに健闘した。
 谷村は、このときの試合について、フォワードはよく球を取ったが、生きた球ではなかったので、球を蹴ったことが多かった、と思い出しているが、新聞にも、京大もしばしば肉薄、トライせんとしてドロップアウトとなりトライ成らず、とあるから、むざむざ零敗を喫したものではない。特に勝島喜一郎が、京大側インゴール内で香山をタックルしてトライを防止したことは殊勲甲であった。このときの両軍メンバーは次の通り。

東大   京大
吉田 FW 岩田 岩雄
梁 源容
井場 西広 忠夫
(旧姓中村)
難波 勝島 喜一郎
橋口 北尾
杉原 奥山 恵吉
笠原 滝口 純
中村 鈴木 茂
小田切 HB 藤尾 誓
佐伯 安 在鶴
西村 TB 木村 潔
大村 谷村 敬介
香山 長谷川 利一郎
鶴原 内田
坪内 FB 森 忠夫
大正11年1月10日
三高グラウンド 主審:竹上四郎

 このうち岩田、梁、奥山、滝口、鈴木、安、谷村、長谷川の八人がラグビー選手経験者、西広、勝島、藤尾、木付、森の五人がラグビー経 験者で、山田、北尾らにとっては初めてのラグビーであった。このほか清水吉男、重名潔(旧姓青木)らがいたが、それぞれ事情があって試合当日は出場していない。なお、この翌日の十一日、東大は三高と対戦して0−11で敗れている。

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ラグビー部創設、承認される

 この東西両帝大最初の対戦があったあと、大正十一年(一九二二年)度の京大学友会役員会においてラグビー部の創設が正式承認されて、ここに京都大学ラグビー部の誕生をみた。水泳部にも籍を置いていた二回生の重名潔は同部から推されて代議員としてこの役員会に出席、ラグビー部新設承認という感激の一瞬に立ち会った。学友会によって部が認められたとき、創設者の谷村敬介はすでに卒業していた。しかし、その創部の努力と、対東大戦の結果は、学友会委員の認めるところとなった。谷村は「春秋の筆法をもってすれば、香山蕃こそ京大ラグビー部生みの親である」と香山の功績をたたえている。そういった面はあるものの”京大ラグビー部創設”の旗の下に集まった、谷村をはじめとする創設期の人たちの尽力もまた高く評価しなければならない。さらに、それまでの十年余を振り返るとき、生まれるべき土壌はすでにあったのである。
 京都大学ラグビー部の誕生は、慶応義塾大学で日本のラグビーが始まってから二十三年目。英国近代ラグビーの始まり、ラグビースクールのウイリアム・ウェップ・エリス少年が初めてボールを腕に抱えて走ったという一八二三年から九十九年を経過している。

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そのころの京都大学

 京都大学は明治三十年(一八九七年)六月、東京大学に対する関西の大学として、日清戦争後の新気運の中で創設された。はじめは理工科大学としてスタートしたが、明治三十二年には法科大学、医科大学が加わり、明治三十九年には文科大学が開講、総合大学の形を整えていく。
 天狗倶楽部員が京大の名で第二回全国大会に出場した大正八年には大学令改正によって、従来の分科大学は学部と改まり、法・医・工・文・理の五学部のほか経済学部が新設される。この新設された経済学部に、京大ラグビー部創設者の谷村は入学するが、当時、河田嗣郎、河上肇ら有名教授がそろっていて人気を集め、この年だけは東大法学部が無試験になったほど。京大内には自由な、若々しい、進取の気風がみなぎっているころであった。
「京都大学七十年史」によると、大学を大阪に置くか、京都に置くかの決定にあたって、三高が京都にあったことが強い要因となり、その後の大学の発展にも三高の存在が影響を与えているが、京大ラグビー部の創設からその後の全国制覇へ向けての発展にも”三高ラグビー”の力が大きく働いている。
 京大の開学宣誓式において、初代総長木下広次は「大学生は自重自敬、自主独立を期すべく、細大注入主義は採らず、自発自得の誘導につとめたい」と訓示している。この自重自敬、自主独立を強調した精神は「本学の脈々と伝えきたった伝統的学風」と「七十年史」は記述している。大学創立二十五年にして誕生したラグビー部も、その気風の中で、フェアプレーの精神とラグビーの健全な発展をめざして、新しい伝統を築いていくことになる。
 大学創始期の学生スポーツは、「七十年史」によると、明治年間は運動会が中心で陸上部、旅行部(のち山岳部)、端艇部(ボート)、馬術部、剣道部、柔道部が運動会傘下団体としてあげられている。その後、大正二年に、もう一つの親睦団体、以文会と運動会が合体、学友会が誕生した。
 公認団体は庭球、弓術、端艇、剣道、柔道、馬術、野球、親和、雑誌、水泳、陸上の十一部。その後親和、雑誌が抜けて、射撃、蹴球、旅行、新聞、講談が加わり、ラグビー部の新設と相前後してホッケー、籠球、卓球、排球(バレーボール)、音楽、共済が参加、昭和初期の学友会公認団体は二十一部となっている。

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初代部長に末広重雄教授

 ラグビー部の初代部長は末広重雄教授であった。末広教授は大正八年に学部制が発足したときの初代法学部長として、同十年四月まで法学部長の職にあった。大学への行き帰り、三高グラウンドを通ってラグビーの練習を熱心にみていることが多く、ラグビーに興味を示していた。また硬骨の、国士風の人格者として知られている教授であったので、部長就任をお願いした。
 ラグビー部創設までの、いわば”神代時代”のラグビーは、ボート、柔道、野球、陸上、水泳など、他のスポーツと兼ねたり、また転向した若者たちによってはじめられた。シーズンが限定されていたため、他のスポーツとの”兼業”も可能であった。初期のラグビーは、柔道マンの武勇伝など数多くの”神話”に彩られているが、一度ラグビーを覚えた若者たちは、もはやラグビーをやめることはできなかった。

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