目次: 通史編第一章 京大ラグビーの始まり

(3)京大ラグビー部の基礎固め

 京都大学ラグビー部の創設された大正後期から昭和初期は、ラグビーフットボールというスポーツが全国の大学、高専、中学校に、燎原の火のように広がっていった時期でもあった。

ラグビー熱、全国へ広まる

 大正十一年一月十日に行われた京大・東大ラグビー対抗試合は学生スポーツ界に一つの刺激を与える材料ともなったが、いま一つ特記すべき試合としては同年四月二十九日、来日中の英国皇太子プリンス・オブ・ウェールズに日本のラグビーをお見せしようと、三高生たらが直接手紙を出して実現した三高対神戸外人のプリンス・マッチ(三高グラウンド)がある。この試合を企画したのは三高ラグビー部主将の奥村竹之助で、東大にいた香山が実現に協力した。
 当時のメンバーはこの年三月に三高を卒業して京大に入学していた渡辺宇志郎、馬場二郎、土井太郎、古川雄三の四人が含まれていたのをはじめ、やがては京大の黄金時代を築いていく精鋭、鷲尾宥三、小西恭賢、三好深平、合田夷、別所安次郎、巌栄一、望月信次、内藤資忠、湯川政治らで、あと一人は東大に進んだ目良篤である。
 また、この日背広とソフト姿でレフェリーをつとめたのは京大OBの竹上四郎。英国皇太子へのご説明役は、京大を卒業後、三高のコーチをしていた谷村敬介であるが、英周皇太子は当然のことながらラグビーには詳しく、谷村が説明するまでもなかったという。奥村は戦後英国通として、日本ラグビー界に尽力、オックスフォード、ケンブリッジ両大学を招待したとき、その中心となった。このビッグ・イベント、プリンス・マッチの成功は、全国にラグビー競技を知らせる絶好の機会となった。
 さらに、この年十一月二十三日には第一回早慶定期戦が行われた。この試合は、明治三十九年以来続いていた”早慶不戦の時代”に終止符を打たせ、すべての早慶戦再開のきっかけをつくったが、ラグビー興隆の大きな引き金ともなっている。
 大正八年に新しい大学令が施行されて早稲田、慶応、同志社、明治、法政、中央、日本、国学院などが大学令による大学として認可されたのをはじめ、専門学校、高等学校、中学校など、日本の戦前の教育制度が確立されて、学生スポーツ全体が興隆期を迎えていた。東、西両帝大にラグビー部が創設されるまでは慶応、三高、同志社、京一中、京一商、早稲田、大阪高商のわずか七校に過ぎなかったが、大正十一年を契機に、新しいチームが続々と誕生してくる。この年、関西では大阪高等学校、天王寺中学校、関東では東京商大にラグビーチームが生まれている。

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旧制高校のラグビー

 さらに大正十二年から大正末期にかけては、大学では明治、立教、関西、法政、中央、北大の諸大学に、専門学校では神戸高商、秋田鉱専、東京高師、三重高農、大阪外語、青山学院、大分高商、旅順工大予科、小樽高商など、また中学では大阪の北野中学、京都の立命館中学、京都三中、東京の早実、京北、暁星のはか福岡中、南満工業など、全国に底辺の広がりをみせてくる。立教大学の創部の中心となった早川郁三郎は、京大時代に天狗倶楽部で活躍した六高出身の柔道マン早川荘一郎の弟である。サッカーをやっている郁三郎は、東京に出ていた兄荘一郎からラグビーの面白さを吹きこまれ、たまたま、兄に誘われ第一回早慶戦を観戦したのがラグビーを始める動機となった。
 旧制高等学校では、三高、大阪高校につづいて大正十二、十三年には一高、浦和、成蹊、甲南、姫路でラグビー部がはじまり、さらに大正末期から昭和初期にかけて二高、高知、水戸、浪高、五高、成城などへと広がっていく。成城のラグビー部は京都一中を大正十五年に卒業した藤井徳也が中心となって昭和三年に創設された。これらの旧制高校からやがて京大で活躍する精鋭が育っていく。

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対東大戦は引き分けに

〔大正十一年度〕 大正十一年度の主将は、前年、谷村とともに創部に貢献した長谷川利一郎。当面の相手、東京大学との対抗戦を目標に、九月に入って猛練習が開始された。十一月に京一商と、十二月は白狼団、関西ラグビークラブ、大阪高商と対戦、京大は6−0、8−0、6−5、12−3といずれの試合にも勝利をおさめて東上した。
 対東大戦は十二月二十八日一高グラウンドで行われた。全体としては東大に一日の長があると予想されていた。前半初め京大が攻勢をみせたが、東大に押し戻され、ドリブルとキックの応酬のうちハーフタイム。後半は東大が終始圧迫し、京大はしばしば危機に陥ったが、シーズンはじめから特訓を続けたタックルによって辛うじて東大の得点を阻み通し、0-0の引き分けに持ち込んだ。当時の朝日スポーツ年鑑に「京大苦戦ながら必死的防御に阻む」と記載されているのは、この間の事情を物語っている。当日の両軍のメンバーは次の通り。FWはセブンである。

東大   京大
山本 FW 中村
渡辺宇
井場
阿部 滝口
難波 勝島
吉田 渡辺民
杉原 清水
沢田 HB 馬場二
小田切 藤尾
佐伯
大村 TB 松村
西村 土井
香山 古川
高井 青木
岩田 FB 長谷川
大正11年12月28日
一高グラウンド 主審:鶴原浩二

 関東の雄東大に対して、三高出身の経験者を多く集めているとはいえ、この健闘は、創部一年の成績としては著しい進境と言ってよいであろう。

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極東オリンピックで同大と初対戦

 〔大正十二年度〕 オフシーズンの五月二十二日に第六回極東オリンピック大会が開催され、ラグビーはエキシビションゲームとして二十二日から二十七日にかけて大阪築港運動場で行われ、関東から慶応、早稲田、関西から同志社大、京大、大阪高商、大阪高校、関西大学が参加した。
 京大は二十二日の一回戦で同志社大と当たった。これが同志社との初めての対戦である。一日の長がある同志社が1トライを先行したのに対し、京大はPKを得て奥村の中央付近からの強蹴が見事決まって3点を回復、終始押し気味にゲームを進めたが、3−3のままタイムアップ、翌二十三日に再試合をした。この試合も京大が優勢に進め、得点機を窺ううち、同志社の原田が京大の虚をつき、パスの球を奪って良駆独走、ゴールポスト中央にトライ(ゴール)。この5点を同志社が守り切って0−5で京大は敗れた。京大の第一試合メンバーは次のとおりで、再試合ではFB湯川に代わって真鍋が出場している。

FW 清川
渡辺宇
小西
滝口
鷲尾
渡辺民
馬場
HB 清水
奥村
TB 青木
土井
古川
松村
FB 湯川
大正12年5月22日
大阪築港

 このエキシビションゲームの決勝は、大阪高校、関大を降した早稲田と、大阪高商、同志社を破った慶応との問で行われた。早・慶は前年秋につづいて二度日の対戦で、関西の地で珍らしい早慶戦の実現となった。慶応が11−6で早稲田を破って優勝した。

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同志杜には秋に雪辱、関西首位に

 京大の同十二年秋のシーズンに入ってからの成績は、

十 月十六日  対三高    10− 3(勝ち)
十一月 三日  対大阪高商  26− 0(勝ち)
 〃  七日  対三高(再戦) 8−10(負け)
十一月二十二目 対同志社中学 18− 0(勝ち)
 〃 二十七日 対同志社大学  5− 0(勝ち)
十二月  八日 対神戸外人   6− 0(勝ち)
 〃  十一日 対三高(第三戦) 3− 0(勝ち)

 三高との三度の対戦は2勝1敗の成績である。同志社大学とはこれまで極東オリンピックのエキシビションゲームで対戦してはいるものの、両校の定期戦としては最初のゲームである。京大が終始優勢に試合を進め、後半7分、密集から出た球を馬場が中央にトライ、奥村がゴールをきめて、これが決勝点となり、同志社を降して極東オリンピックの雪辱を果たした。
 これで、この年の関西チームの首位に立ち、年末から年初にかけて西下してくる慶応、東大の関東勢を迎えることになった。東大とは三度目の対戦、慶応とは初めての対戦である。関東では九月、大地震に襲われたが、東大、慶応はその災害を克服しての西下であった。京大チームは二つのピック・ゲームに備えて十二月二十日から合宿して、練習を重ねた。FWはイングランド・システムのエイトがようやく定着してきたようである。
 アサヒスポーツの第二巻新年号には「旧三高選手H・O生」の「関西ラ式蹴球界の現状と興味ある東西大学対抗戦」という記事が掲載されている。京大は「昨年(大正十二年)三高から五名の精鋭が加わったので意気衝天、不断の練習によって、一躍斯界の一流チームに伍し、今まで三高、同大の対立であった関西に、三チーム鼎立の形勢を作った。一勝一敗の三高との決戦は関西の争覇戦であったが、同大、外人その他のチームをなぎ倒しているだけに凱歌を奏することが出来、昨年の覇権を掌握した」と述べ、慶応との初めての対戦を「関の東西の覇者たる両雄の会戦は、我が国における争覇戦である」と意義づけている。

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慶応セブン、京大エイトの初対戦

 京大対慶応第一回対抗試合は、十二月三十日午後二時三十分から、三高グラウンドで挙行された。粉雪さえ混えた北西の凍風が吹いて寒さのこたえる日であった。両軍のユニホームは黒と黄の慶応に対し京大は白と濃紺のダングラ縞である。
 この試合が注目されたのは当時のアサヒスポーツによると、「慶応は未だかつて邦人チームに一度も敗れたことのない、名誉と誇りに輝く歴史を持つ斯界の覇者」であり、京大は「真摯な研究と堅実な練習によって、目下破竹の勢をもって延びてゆきつつある元気に満ちたチーム」であること。技術的には慶応が外人団に勝つため苦い経験と研究の末に創造した、いわゆる「伸縮性に富んだ慶応システム」である3・2・2のセブン・システムに対し、京大のイングランド.システム(神戸・横浜の外人団がやっているエイト・システム)がどう戦うか、「この特色ある両チームの会戦こそ、ようやく延びんとするわが蹴球界の前途のため好個の研究資料」になるものと注目している。
 京大フォワードは「体格強大の猛者ぞろい、慶応フォワードに比べて重量では優に平均一人二貫(約7.5キログラム)の差があり、日本人のフォワードとしては申し分のない立派なもの。ファーストローセンターに三高時代から英名を馳せていた渡辺(宇)、フッカーに宇野、左バックローに主将の清水、右には渡辺(民)、センターに老獪な鷲尾が控え、中押しには強引な滝口、河野を置き、実に整然たるもの」で、このフォワードにすぐれた京大と、力の平均した慶応との対戦は予想通りに接戦を展開した。しかし結果は1トライ、1ドロップゴール、1ペナルティーゴールの0−10(0−7、0−3)で慶応が勝った。
 試合開始後1分、京大陣25ヤード中央付近からの慶応大市のドロップゴールが成功して4点先行したことで慶応は有利に試合を進め、京大はほとんど自陣内で戦わざるを得なかった。しかし、この黄金時代の慶応に圧迫されながらも、わずか1トライしか与えず、ことに後半はノートライの善戦をした京大の努力は、高く評価された。アサヒスポーツは次のように書いている。
「後半の京大戦法は真の強味を発揮した彼等の力そのものであった。それは体格にすぐれたフォワードを利用したイングランド・システムの前衛戦であった。スクラムにルーズ・スクラムにガッシリ正確に組んだ彼等の力は偉大であった。相手の力を利用してスクラムをホイールし、フォワードが二分しての迅速なブレークアップには研究の跡歴然たるものがあった。しかし、ドリブルに移るのが少し遅過ぎるような欠点があった」

慶応   京大
中村 FW 宇野
木下 渡辺宇
岩下 小西
益田 滝口
吉本 河野
高橋 渡辺民
原槇 鷲尾
清水
宮地 HB 馬場
萩原
奥村
北野 TB 内田
大市 古川
山口六 土井
山口亨 真鍋
FB 湯川
大正12年12月30日
三高グラウンド 主審:竹上四郎

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慶応・益田選手の遠征所感で称賛

 これまで”断然”とびぬけた力をもっていた慶応に対して、初めて対戦した京大の力は、慶応チームにショックを与え、京大チームに対する認識を一新させた。慶応の蹴球部六十年史の中に大正十三年一月二十一日付で、このときの関西遠征について慶応蹴球部選手益田弘が書いた「蹴球遠征所感」が掲載されている。
「慶応蹴球部の関西遠征の結果はわが国の蹴球界に進歩と一大革新を起こした。またわが慶応チームにとってこの遠征によって大なるショックを感じたのである。我々のチームは強い自信と期待とをもって遠征したが、その結果は意外の成績をもたらした。しかしそれは当然来るべき運命であった。我々は幾度かの全勝を行って遠征したが、もうその時代は去った。精練されたチームの力は互角である。今後はますます自然的なハードゲームが行われると思う。古い歴史を持つ慶応の戦法は、全て見破られてしまった。京大、三高、同志社の三チームは我々が考えていたより強かった。常に規則正しく練習と研究とに磨きあげられたこれらのチームは慶軍に対する戦法を変えてきた。我々の消極的攻撃によって勝を制する戦法は裏切られ、もう古いものになってしまった。敵の大胆なオープンゲームによって、慶軍は一時は危なく混乱の状態になったことさえあった」と反省し、エイトFWの京大との初対戦については「最初の京大とのゲームは非常に緊張していた。京大は昨年以来関西の覇者として、その戦法は全力をフォワードに置いた。京大のフォワードは十八貫五〇〇(約70キログラム)のエイトを有し、八人のスクラメージにてバックマンはスタンドオフを加えた異なった陣容(ポジション)であった。スクラムからの球はスクリュウモーションによってドリブルされていた。しかしこの戦法はまだ熟使されていなかった。慶軍は……最後まで苦戦した。我々は少しの幸運なチャンス二つを取り得てトライしたに過ぎなかった。その力は、はとんど互角であった。そして今までにないファインゲームであった」と記している。
 平均体重70キロ弱のフォワードが”強大フォワード”と思われていたというのは、戦前と現在の学生の体位の差を物語っているが、この「遠征所感」は京大チームに関して「今後は実に恐るべき強チームになることは予言して可なりと思う」と、その将来の発展を予測、さらに「ここに京大のプレーヤーがみなファインプレーヤーであることを一言したい。我々は京大のようなラグビープレーヤーとゲームをしたことを心から喜んでいる」と、京大チームのフェアプレーぶりを称賛してくれている。

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京都の観客マナーを反省

 しかし、観客のマナーについては、遠征通信の中で「いつもながら関西の野次には恐れ入る。関東のゲームを見せてやりたい」と批判している。京都の野次のきたないことは定評があったようだが、京大側は、この京慶戦の観客のマナーを反省して、次の京大−東大戦のときは、拍手以外の声援を禁止した。

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エイト同士の初対決・東大戦

 年が明けて大正十三年一月十日午後三時から三高グラウンドで京大は東大と対戦した。この試合の意義は、両軍フォワードが3・2・3のエイト・システムで対戦したことである。日本最初のエイト同士の対決であった。
 アサヒスポーツによると「さらに慶応対京大戦は、慶応の3・2・2のいわゆる慶応システムと、イングランド・システムを研究した京大との対戦であったから、両チームがいずれも自己の長所をもって闘い合ったので、興味あるゲームとして期待されたのと同様に3・2・3のイングランド・システムを研究した東西両帝大の対抗競技もまた現在日本のラグビー界にとっては、他チームのゲームに見得られない貴い研究資料を提供した価値あるゲーム」と記されている。
 戦前の予想では、関西の覇をにぎった京大に対し、東大は名ハーフ佐伯や小田切を失い、多くの新メンバーに加えて、関東大震災にたたられて練習不足となっているから、京大優勢とみられていた。試合の結果は下馬評通り京大は前半に馬場のトライ(ゴール)、後半のスクラム・トライに対して東大は前半の1PG成功のみで8−3(5−3、3−0)で京大の勝利となった。大正十一年一月の最初の東大との対戦から三年日にして、ようやく東大に一矢を酬いることがでさた。このゲームを通じて京大の”強いフォワード”を力強く印象づけた。当時の朝日新聞は次のように記している。
「終始オープンゲームで近来にない気持のよい試合であった。京大のフォワードとハーフのコンビネーションの研究は、フォワードが東大よりはるかに強かっただけに京大に有利であった。従って、京大の戦法は、フォワードをもって散々に東大を圧迫し、他のあらゆる対抗競技には常に惜敗している京大も、蹴球では堂々と勝った。」
 谷村らが京大チームを編成したとき、最大の力点を置いたのは”強力フォワード”の実現であった。その努力はこの東大戦で、ようやく酬いられた。”強いFW”はさらにのちの全国制覇の陰の推進力ともなり、京大の新しい伝統ともなっていった。

東大   京大
清瀬 FW 宇野
久富 渡辺宇
井場 小西
平松 滝口
阿部 河野
斎藤 渡辺民
安部 鷲尾
吉田 清水
石田 HB 馬場
藤田 奥村
加藤 TB 内田
西村 古川
高井 土井
大村 真鍋
岩田 FB 青木
大正13年1月10日
三高グラウンド 主審:竹上四郎

 この年のスポーツ誌の締めくくりとして、京大の躍進、殊に強力FW(体力的に日本一)がエイト・システムをよく生かしていたことが挙げられた。また慶応システムの慶応、三高、早稲田、同志杜に対するイングランド・システムの京大、東大のセブン対エイトFW対決の第一年とみていたことである。

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北白川にグラウンド誕生

〔大正十三年度〕 この年度の記念すべきことは、北白川に新しいグラウンドができ上がったことである。それまで、吉田にある京大構内には近代スポーツに対応する広いグラウンドはなかった。わずかに、小学校の校庭はどの小さな運動場があるに過ぎなかった。大正十二年の秋、農学部が北白川に新設され、翌十三年開講するに当たって、その東北隅にグラウンドが新設された。大蔵省はグラウンド作りを許可しなかった。しかし、各運動部は植物園グラウンドや三高グラウンドなどを借り歩かねばならない実情にあり、諸先輩からもグラウンド設置の要望は強かった。
 このため、会計課長であった福井正大郎事務官は一計を案じた。農学部建設に便乗してグラウンドは農作物乾燥場、プールは灌漑用溜池、武道場は農夫詰所といった名目をつけて予算を獲得、これによって強引に工事を進めて完或させた。設計には陸上部マネジャーの比企元や勝島喜一郎(大正十三年卒)が参画している。当時の総長は荒木寅三郎。のちにこのことが会計検査院から不当と指摘されて、福井事務官は責任を取らされたと伝えられている。
 北白川は、まだ”郊外”と呼ばれた時代であるが、グラウンドの東北隅の小高い丘には合宿所もつくられた。大正十三年六月十八日にはこの新設グラウンドで第二十七回創立記念日の大園遊会が開かれ、教職員学生約四千人を集め、尾上松之助ら当代の名優を招いて一大ページェントをくりひろげた。卒業生総代として勝島喜一郎が祝辞を述ベている。翌年からは五月の第三日曜日を大学祝日と定め、北白川のグラウンドで懇親会を開くのが通例となった。

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”強力チーム”が三高に連敗

 十三年の京大チームは、前年関西を制覇して関東の慶応とも善戦しており、さらにこの年、三高から望月主将以下、内藤、中出、別所らの新鋭を迎えてA・Bチームができる程に充実、全国制覇の夢さえ抱かせるチームづくりができあがった。しかし、この年の成績は余り芳しいものではなかった。
 秋に入って、部員の動員を開始したところ、文官試験や選手の個人的な事情で集まらず、十一月、やっと三高と練習マッチを行ったが、0−18で簡単に一蹴された。思わぬ惨敗に結束を固めるため、北白川の農学部グラウンドの合宿所に入って、建て直しを図り、東都遠征を控えた十二月十日に三高と対戦した。結果は、一般の予想を裏切り、大接戦の末0−3で再び三高に敗れた。「練習不足の結果」を物語る試合となった。
 アサヒスポーツによると、京大のフォワードが「わがラグビー界いずれのチームにも見出し得ない巨大、頑強なフォワード」であるのに対して、三高は「短躯ぞろいで、ガッシリと頑強に組む」フォワード。スクラムは「力と重量に劣っていても下から押しあげるようにして組める三高に有利」で、これが京大を苦戦せしめたと指摘している。この年、同志社大学との対戦はなかった。当時の目標は東大、慶応との対戦であった。

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DB・LB戦も加わる

 年末から新春にかけて京大をはじめ三高、同志社、中学チームの京都一商、同志社中学が上京、三高は一高と、また同志社は立教と初めて対戦するなど、関東の各チームと好ゲームを展開、東西争覇戦の形が定着してきていた。その皮切りが京大と東大の両帝大戦であった。
 この年から京大DB対東大LBの試合が加わっている。DB−LB戦は十二月二十七日一高球場で行われ0−0の引き分け。翌二十八日同じグラウンドで、京大は東大と対戦した。京大は強力フォワードを利して東大を圧してわずか10分間に3トライをあげたが、後半に入るや調子を落としたのか、東大に追いあげられ、結局試合には勝ったものの、当時の紙上で「東大より優秀な技倆をもっている京大が、わずか12−8(9−0、3−8)のスコアで勝ったのは心細すぎた」「由来、京大は何の種目の競技にも東大のようなファイティング・スピリットに欠けている」と酷評を受けている。なお翌十四年一月三日には京大対東大の初のOB戦が行われ、18−6で京大OBが勝っている。

東大   京大
三宅 FW 宇野
久富 渡辺宇
清瀬 清川
長谷川 河野
鷲尾
千葉 渡辺民
安部 奥村
谷口
石田 HB 馬場
吉田 古川
入江 TB 内藤
本村 望月
高井 土井
竹藤 真鍋
湯川 FB 湯川
大正13年12月28日
一高グラウンド 主審:香山 蕃

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慶応に1トライ酬いる

 京大と慶応との二回目の対戦は、秩父宮、高松宮、賀陽宮三殿下を三田に迎えて、十二月三十一日に行われた。結果は慶応が前半1トライ、後半3トライ(うちゴール成功2)1PG計19点に対し京大は後半1トライ、3−19(0−3、3−16)をもって慶応の連勝となった。
 この試合でエイトの弱点が指摘された。慶応の4トライのうち二つまでが慶応のハーフ陣がスクラムサイドを潜ってのもので、京大のエイトが押しに専念するあまり、バックローのブレークアップがおくれたこと、フォワードとバックラインとに間隙ができたことなど、京大の研究してきたエイト・システムはゴール際における防御陣形に欠陥をもっているということである。しかし、いずれの学校チームとの対戦でも、トライを許したことのない慶応に対して、1トライを酬いた点は称賛されている。

慶応   京大
中村 FW 宇野
小林 渡辺宇
岩下 清川
鈴木 鷲尾
吉本 河野
高橋 渡辺民
原槇 奥村
馬場
宮地 HB 古川
萩原
三好
北野 TB
山口六 望月
高野 土井
山口亨 内藤
FB 真鍋
大正13年12月31日
三田グラウンド 主審:橋本寿三郎

 このシーズンの戦績は、早慶第三回戦に17−0で早稲田を破った慶応が東西対抗戦でも京大、三高、同志社を連破して無敗の記録をのばし、三高はシーズンはじめに京大、同志社を破って関西のトップに立ち、東上して慶応には0−6で敗れたものの、一高、東大に連勝している。京大は実力をもちながらも、脆さのあることを露呈したシーズンとなった。

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同志社とは引き分けに

〔大正十四年度〕 このシーズンから農学部グラウンドが十分に整備されて、部の活動もようやく活発となった。シーズンに入って、十月二十五日全開西チームを農学部グラウンドに迎えての試合は9−14(0−11、9−3)で敗れたが、十一月二十三日の対大阪高商(京大グラウンド)、同二十八日の対大阪高校(大高グラウンド)の前哨戦に6−0、別−0と、両校にトライを許さずに勝って、十二月六日、同志社グラウンドで、同志社との試合に臨んだ。
 同志社はすでに昨年度関西No.1となった三高を11−0で破っており、大方の観測は同志社に有利とみられていた。当日は夜来の雨晴れやらず、グラウンドは水溜りさえある悪コンディション。ドリブルとキックの応酬でFW戦に終始した。FWの優勢な京大に有利だったわけで結局0−0のまま引き分けに終わった。
 十二月十五日の対三高戦(京大グラウンド)も雨中戦で、試合は京大優勢裡に進められた。奥村、西郡、星名、奥村とトライを前ね、1ゴール、3トライ、14−0で快勝。大正十二年からの対三高戦の成績は京大三勝、三高四勝となった。
 同二十七日には、京大グラウンドで対東大戦が行われた。双方ともスクラムに自信のあるFWなので、スクラムごとに猛烈な戦いを演じた。9分、京大はポスト前にPKを得て内藤のプレースキックで3点を先行。後半東大主将平松がFW戦で傷ついて退いたが、東大がしばしば好機を得て京大を圧したものの京大が好守。25分を過ぎて奥村、中出のトライ、ともにゴール成って、13−0で快勝した。

東大   京大
三宅 FW 小西
清瀬 赤瀬
山口 石橋
平松 鷲尾
宇野 河野
奥村
和田 中出
谷口 別所
清水 HB 西郡
内藤
TB 川上
湯川 星名
高井 望月
小林 宮越
寺村 FB 三好
大正14年12月27日
京大グラウンド 主審:竹上四郎

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早大との初対戦に敗れる

 京大は十二月三十日、早大を京大グラウンドに迎えた。早大は関東で慶応には3−8で惜敗したものの、東大を9−3で初めて降し、慶応につぐ位置にあり、その最初の関西遠征で、京大との対戦は初めてである。
 京・早戦は、京大のエイトに対して早大はセブン。早大はFWの強力な京大とのFW戦を避けHBがポールを素早くバックに送ってオープンに展開する作戦をとり、これが成功した。FWも頑張り、タイト、ルーズとも球はほとんど早大側に出て、京大得意のマスドリブルもほとんど見ることはできなかった。早大は西野、三浦、兼子の3トライ、京大はノートライ、結局0−9(0−3、0−6)で早大が第一戦をものにした。早大ラグビー部三十周年記念出版の「日本ラグビー物語」の中で、この第一回京・早戦について次のように書いている。
「京大は十二月二十七日に東大を迎えて東西対抗戦をやって、二日おいて三十日に早大を相手にしたのであったが、その時の京大側の態度には、早大をあまく見て油断をした気配が濃厚であった。これに反して早大の側は、東西対抗(京大−東大戦)を全員で観戦して作戦を練り、この第一戦を物にすべくあらゆる知恵を絞った。さきに(早大−東大戦で)散々に(早大が)押しまくられた東大のスクラムが京大には歯が立たず、これまた散々に押しまくられたのを見て京大を容易ならぬ敵と観じたのであった。ところが、ぶつかってみると、疲労の癒えぬ京大のフォワードは一向に押しが利かず、早大フォワードは案外楽に戦い得て球を取り、味方のバックをして十分に活躍の機会を与えた。……」
 京大は、早大の戦法に完全に振り回された。東大戦の疲れもあったのか、ディフェンスに終始して敗れる結果となった。

早大   京大
中村 FW 小西
渥美 石橋
坂倉 清川
清水 鷲尾
石田 河野
友田 奥村
兼子 中出
合田
片岡 HB 西郡
本領
丸山 内藤
西野 TB 宮越
馬場 望月
滝川 星名
三浦 川上
西尾 FB 三好
大正14年12月30日
京大グラウンド 主審:竹上四郎

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関西の覇者をきめる同志社との再戦

 関東の覇者、慶応は十四年の年末から上海遠征に出発、この年の関西遠征はとりやめになっていたので、シーズンはこれで終わるはずであった。しかし、対同志社戦が引き分けとなっていたため、関西の第一位を決めるため同志社と再試合するよう協会から指示された。この勝者が、上海遠征から帰った慶応と対戦して全日本選手権を争うことが予定されていた。
 大正十三年六月にA・J・R・C(オールジャパンラグビークラブ)を母体に関東ラグビー蹴球協会が設立されたのに続いて、関西でも翌十四年九月に、関西ラグビークラブを母体として西部ラグビー蹴球協会が誕生した。ラグビーが、全国各地に普及し、特に当時の”植民地”である朝鮮、満州、台湾にも広まって、統制上、ユニオン結成が必要とされていたわけで、京大と同志社の再試合も、関西を代表して、関東の慶応に挑むべきチームを決めるために、協会がイニシアティブをとったものである。
 試合は十五年一月三日、同志社グラウンドで行われた。京大は東大、早大との連戦の疲れに加えて、頼みのFWの第一線から赤瀬、小西、さらにHB西郡らが出場できなかったのに対して、同志社は十二月二十五日に明大を17−3で破ってから十分に英気を養っていた。試合は京大望月の先制トライ(ゴール)に対して同志杜は1ゴール、1トライで逆転、さらに1ドロップゴールを加えるなど、5−15(5−8、0−7)で同志社の勝利となった。

同大   京大
名古屋 FW 桑原
木村 斎藤
岡本 石橋
菱田 河野
河合 鷲尾
井上 奥村
東田 中出
合田
小川 HB 内藤
野口 別所
松見 TB 川上
樋上 望月
秋間 星名
宮越
助野 FB 三好
大正15年1月3日
同大グラウンド 主審:竹上四郎

 東西No.1同士の慶応対同志社の日本選手権競技は、西部ラグビー蹴球協会主催によって、一月十日甲子園グラウンドで行われ、6−6の引き分けに終った。同志社ラグビー七十年史は「六日の早稲田との定期戦(10−3で早大勝つ)をはさみ、十日に関東の一位となった慶応との試合を日本選手権試合とされ、善戦むなしく6−6の引き分けに終わった。もし過密スケジュールを組まされなければ、創部以来の悲願である宿敵慶応に初勝利と共に第一回日本選手権の完全制覇が記録され、ラグビー年譜に『同志社大学、初の全国制覇を成す』とでも掲載されることであろう」と、過密スケジュールを残念がっているが、この打倒慶応と全国制覇は、やがて京大によって実現されることになる。

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ビッグシックスの時代

 シーズンが終わって西部協会は大正十四年度の関西大学・高専チームの順位を@同大A京大B三高C大高D関大E神戸高商F関学G大阪高商H大阪外語と発表している。東西のラグビー界は、関西の同大、京大、三高、関東の慶応、早大、東大がビッグシックスといわれ、関東では明大、商大、立教がこれに続いている。殊に、このシーズンは早大の進撃が大きな話題となった。慶大には3−8で敗れたものの、東大に9−3で勝ち、関西遠征では、三高、京大、同志社を連破して、早慶時代の幕あけの感をもたらした。時事新報はこのシーズンの成績から、大正十四年度のランキングを@慶応A早大B同志社C京大D三高E東大、としている。
 また、京大チームに対する所感として「技倆あるプレーヤーの集団でありながら、割合に成績が振るわなかったのは、対早大戦は東大戦の後で予想外れに振るわなかったし、同志社との決戦にはフォワードの精鋭小西、赤瀬、ハーフ西郡等が出場できなかった等の原因もあったが、意気の力においても、アタックにおいても、スリークォーターのウイングが弱かったのが目立っている。そのチーム中のスタープレーヤーの活躍は目覚ましいものがあって、そのフォワードのドリブルは水際立った美事さを有し、全体によいチームであった」と記している。

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全国高専大会の運営

 この十四年度から昭和のはじめにかけて、京大ラグビー部が日本ラグビー界のために果たした役割の一つに、全国高専大会の運営がある。
 大正七年に、大阪毎日新聞社によって始められた日本フートボール優勝大会は、第三回大会から中学生が高校、大学生と対戦するのは体力的に無理があるとして、中学と大学・高専とに分かれた。高専大会への実際の出場チームは数校にすぎなかったが、大正十四年の第八回大会では急に増加して八校の参加をみ、今後も増加するものと考えられ、西部ラグビー蹴球協会が設立されたのを機として、高専チームのみの大会に改編された。
 それまでの大阪毎日新聞社主催を改めて、京都帝国大学ラグビー部が主催者となり、西部ラグビー蹴球協会の指導、大阪毎日新聞社の後援によってその第一回大会を大正十五年一月七、八、九の三日問、北白川の京大グラウンドで開催した。参加チームは一高、三高、浦和高校、大阪高校の高校四チーム、旅順工大予科チーム一、同志社高商、大阪外語、大阪高商、大分高商の専門学校四の九チームであった。大阪外語が都合で棄権したため、八チームで一回戦を行い、結局、三高が優勝した。最初、四日問が予定されたが、三日間で終わった。第二回大会からは日本ラグビー蹴球協会も設立(大正十五年十一月)されて大会は協会が主催し、京大は主管ということに変わっているが、京大ラグビー部(主としてOB)が第十七回大会(昭和十七年)まで大会の運営の中心となったことに変わりはない。高専大会の詳細については別項、国領武一郎の「京都大学と全国高専ラグビー大会」を参照されたい。
 なお、大正十四年十一月十五日、関西学士ラガー倶楽部が結成され、同日、京大DBと試合のあと、発会式をあげた。翌十五年一月二日、三高グラウンドに関東学士ラガー・チームを迎えて、第一回対抗戦を行っている。結果は6−0で関東の勝ち。

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京都大学と全国高専ラグビー大会

 戦前、盛大に行われていた全国高等専門学校ラグビー蹴球大会は、大正十五年一月、その第一回の大会が、京都大学ラグビー部の主催の下に京都北白川の京大グラウンドで行われてから、戦後昭和二十四年、学制改革によって発展的解消を遂げるまで、二十一回にわたり行われて、ラグビーの普及、発展の重要な原動力となって日本ラグビー界に多大の頁献をしたのである。ここに、この間の経緯を簡単に記して、高専大会を立派に育てあげられた当時の京都大学の先輩方のご苦労をしのびたいと思う。
 大会の起源は、大正七年一月に始まる大阪毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大会・ラ式の部」である。当時、日本でラグビーをやっていたのは、横浜、神戸の両外人クラブを除けば、関東では慶応義塾、関西では第三高等学校、同志社、京都一中、京都一商の五チームであった。従って、これを大学、高専、中学と分けていては大会は成立せず、全チームの任意参加の形となって、第一回の参加チームは全慶応、全同志社、三高、京一商の四チームであった。第二回(大正八年)は、同志社中学が全同志社から分かれて単独で参加したのと、京都大学ラグビークラブチームながら京大を名乗って出場して六チームが参加した。しかし中等学校と大学とが同一大会で試合をするのは不合理であるとの抗議が出て、第三回(大正九年)からは大学、高専を中等学校と分離して大会を行うことにしたが、中等学校は同志社中と京一商の二校の参加のみ。大学、高専の方は参加チームなく、大学、高専の部は中止された。第四回(大正十年)は、慶応予科、大阪高商(現大阪市大)に、正式に部には認められていない関西学院の三チームが参加した。第五回(大正十一年)は三高、早稲田大学、大阪高商の三チーム、第六回(大正十二年)は三高と同志社の二チームのみ。第七回(大正十三年)には、三高、同志社のほかに同志社高商が単独で参加したのをはじめ、神戸高商(現神戸大)、関西大学の五チームとなった。このころには新しくラグビーチームを編成する学校が出来てきた。そして第八回大会(大正十四年)には三高、同志社のほかに早稲田高等学院が早稲田大学より分離して参加したほか関大、大阪高商、大阪高校、関西学院、大阪外語の八チームが参加した。
 このころになると、大学チームと高校、高専校とを同一大会で試合させるのは不合理であるとの意見が大毎の久富達夫あたりから出る一方において、参加校が増加して大会運営面においても種々不都合が出て来たのであろう。大毎でも、ここらで従来のやり方を一変して再出発することになった。この新しい方針を宣伝したのが大正十四年十二月十九日の同紙の社告である。当時の様子を物語るものとして、その社告を次に記しておく。
 本社は全国蹴球大会を主催し来ること、ここに八年、本邦における蹴球競技の発達は年と共にその著しきを加え、今やこの隆々たる盛況に接して、本社の過去に尽くした力の酬いられたのを喜ぶと共に、更に今後の蹴球界に対し真の統一と発展を期待すべく、明年一月を期し断然従来の方針を一変し、まず中等学校方面には既報の通り蹴球大会を挙行すると共に、高等専門学校方面に対しては、京都帝国大学蹴球部を後援して、西部ラグビー蹴球協会指導の下に、全国高等専門学校ラグビー大会を催すことになった。一月甲子園の中等学校大会に相次いで京洛の地に行われる本大会こそ、勇壮極りなきラグビー蹴球の男性的真価を現示するものと信ずる。

競技規則 大正十四年度協会制定の規則による。
指  導 西部ラグビー蹴球協会後見指導
期  日 一月七、八、九、十日
会  場 京都帝国大学グラウンド
    (都合により他のグラウンドを使用することあり)
試合時間 予選五〇分、決勝一時問
参加資格 高等学校、大学予料及び同程度の専門部、専門学校生徒より
     なるチームにして合併混合は認めず。
組合方法 一回の抽選により順列を定め、以後トーナメント式によって
     決勝に至る、同点の時の処置はレフリー並に役員会議に一任
     の事
申し込み 十二月二十五日(……以下省略)

 ということで、京大ラグビー部が運営の中心となって実施された。グラウンドも北白川の農学部グラウンドを使用した。
 大正十五年一月の第一回大会のあと、昭和二年の第二同大会は諒闇で中止。昭和三年の第三回大会から、大正十五年に日本ラグビー協会が設立されて関東、西部両地域協会がその傘下に入ることになって、日本ラグビー界の組織が出来上がり、この種大会は日本協会(西部協会)が主催し、主管京都帝大ラグビー部、後援大阪毎日新聞社ということで行われた。
 大会運営の要である主審は第五回(昭和五年)までは全員京大OBがその労をとられている。グラウンドが花園へ移ったのはこの第五回大会からであるが、その翌年からは試合数も増えてきているので、他の大学のOBの方々にも主審になって頂いている。
 昭和三年の第三回大会から全国を四地区に分けて予選、第五回からは八地区で予選、第十回大会は十地区、第十一回からは十二地区で予選を行い、十二チームが花園に出場して覇を争ったのである。そして、正月休みの中の三日問に十一試合が行われたのである。従ってお世話願った諸先輩方は、試合当日はもち論のこと、その準備のため種々と苦労を払われて、休日の大部分を犠牲にせられたこと思う。

(昭和九年卒業)国領 武一郎 記

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《全国高専ラグビー大会メモ》

 前身、大正七年一月の日本フートボール優勝大会(豊中グラウンド)に始まる。その第三回(大正九年)から中学大会を分離。大学・高専の大会は申し込みなく中止。第四回(大正十年)から第八回(大正十四年)まで続いたあと改編。大学を除いて、全国高等専門学校ラグビー蹴球大会となる。大阪毎日新聞杜(毎日)の主催を改め、主催=京都帝国大学ラグビー蹴球部、指導=西部ラグビー蹴球協会、後援=大阪毎日新聞社、第一回大会は大正十五年一月七〜十日京大グラウンド。主審=鷲尾、別所、望月、合田、星名。優勝三高。第二回大会は主催=日本ラグビー蹴球協会、主管=帝大ラグビー蹴球連盟、後援=大阪毎日新聞社で昭和二年一月開催予定で各地の出場チーム選考が進んでいたが、大正天皇崩御で無期延期。第三回大会(昭和三年一月三〜五日京大)主催=西部ラグビー蹴球協会、主管=京都帝大ラグビー部、後援=大阪毎日新聞社。この大会から全国四地区(関東、東海京都、近畿中四国、鮮満)予選によって代表四チームを選出。(大阪高校、東京高師、彦根高商、南満工専)主審=望月、馬場、巌。優勝は大阪高校。
 第四同大会(昭和四年一月三〜五日京大)主催=日本ラグビー蹴球協会、主管=西部ラグビー協会、京都帝大ラグビー郡、後援=大阪毎日新聞社、(立教大予科優勝)主審=望月、馬場、巌。第五回大会(昭和五年一月三〜六日花園ラグビー場)主催=西部ラグビー蹴球協会、主管=京都帝大ラグビー部、後援=大阪毎日新聞社)参加チーム増加に伴い全国を八地区(東北・北海道、関東、東海、近畿、大阪・奈良、中・四国、九州、鮮満)に分けて予選。出場は二高、東京高師、三重高農、同志社高商、天理外語、関西学院、五高、満医大予科。優勝は東京高師。主審=合田、望月、馬場、巌。第六回大会(昭和六年一月二、四、六日花園)主催、主管は前年どおり。東京高師の連続優勝。主審=合田夷、山口三郎、橘辰雄、望月信次、別所安次郎。
 第十回大会(昭和十年)より、十地区(東北・北海道、関東、東海・京都、大阪、兵庫、中国・四国、九州、朝鮮、満洲、台湾)予選。主審も各大学OBが多く加わる。第十一回大会(昭和十一年)は十二地区(北海道、東北、関東A、関東B、東海・京都、大阪・紀和、兵庫、中国・四国、九州、朝鮮、台湾、満洲)予選。第十七回大会(昭和十七年)戦時色濃くなり、関西大会と九州大会に分かれて開催。第十八回大会(昭和十八年)から大日本学徒体育振興会主催、文部省後援の形。高等学校を分離し、朝鮮、満州から参加なし。第十九回大会(昭和二十二年)主催=日本ラグビー蹴球協会、主管=西部ラグビー蹴球協会、毎日新聞社後援。戦後復活第一回大会。第二十一回大会(昭和二十四年一月二、四、六日)会場をこれまでの花園から東京ラグビー場に移す。同年四月の新制大学発足に伴い、全国高専ラグビー大会は、この大会を最後として、二十余年の歴史の幕を閉じる。

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