目次: 寄稿編 No.13 創部当時の裏話あれこれ 河合務

一 京大ラグビー部の誕生はシャンホールの卓子の上。

 谷村さんに会おうと思えばシャンホールに行けば間違いなく会えた。シャンホールは、三高裏門通りのも一つ裏通りにあった。お秀さんという美しい娘がいたのでこの名がついた。不愛想でむつかしそうな親爺と美人で、三、四坪の土間は何処よりも落付けた。お秀さんはどうしているかな。

二 太郎、二郎、宇志さんの入学で京大ラグビー部は順調に発展した。三人が東大に行っていたら、三高の後輩達も後を追い全盛を誇った京大ラグビーの姿は見られず、東大と立場が逆になっていただろう。

 (編集者注)太郎は土井太郎、二郎は馬場二郎、宇志さんは渡辺宇志郎。いずれも大正十一年に三高から入学。この年と翌十二年三高から入学した人達によって、京大のエイト・システムができ上った。

三 僕の京大ラグビー部に役立ったことは、三高三年の時ガン坊をラグビー部に取り、ゴー州とガン坊を三高に四、五年在学させ、大学一年の時阿部吉を三高ラグビー郡に入部させたことが後年結実した。ガン坊の取り合いには苦労した。野球部の勝島コーチと高瀬主将が寮の玄関に頑張っているので、賄の入口から出入りし、朝から晩までガン坊一人にかかり切りだった。結局ゴー州とガン坊はラグビーと野球を両方やることになった。ガン坊という図々しい奴には苦労したが愉快な想い出も少なくない。

(編集者注)ガン坊は宇野庄治、ゴー州は合田夷。

四 京大運動場の建設。

 大正十二年農学部が創設され、翌年、運動場、武道場、プールが造られた。当時の会計課長に福井正太郎というえらいのがいて、運動場は農場、武道場は農夫詰所、プールは灌漑用溜池、ということだったらしく、後に会計検査院から不当と指摘されて福井事務官は責任を取らされたと聞いている。

五 高専ラグビー大会

 大学三年の秋、大正十四年十一月も終りの頃大毎の久富達さんに夕食に誘われた席で、京大ラグビー部主催で全国高専大会をやらないか、大毎後援で経費は大毎が負担する、との申出があり、部内で協議の結果引き受けることとなり何とか実行したが、冬季休暇の関係で日時切迫、苦労した。この大会で発生した大高の鈴木君の負傷には心を痛めた。日本のラグビー界が直面した大きな問題であった。

 (編集者注)久富達さんは、東大ラグビー部OBの久富達夫氏。

六 大学に入り、東大に行った久保の下宿、東山五條に移ったが二食付五十円、高すぎるので参っていた。滝口入道さんが結婚するので二階に住んでくれと言われたのを口実に北白川に移る。入道夫妻が入るまでナベ、キョーケンの三人で自炊、出入りが繁しかった。ゴー州、ガン坊が鶏肉をさげてきた。三高の賄の鶏十羽余り盗んだ奴がいた。内藤、門田説もあったが確かでない。

(編集者注)滝口入道は滝口純、ナベ、キョーケンは真鍋三郎、小西恭賢。門田は三高陸上部、京大卒後朝日新聞記者となった門田勲氏。

(大正十五年卒)

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