目次: 寄稿編 No.15(二)ハードトレーニング 鷲尾宥三

 吾々がプレイしていたのは大正末期で、既に五十年経過して、記憶も大分薄れて失っているが、唯一つはっきり頑に残っているのは、毎日ハードトレーニングをやった事である。

 当時関西では京大、三高、同志社、関東では慶応、東大、早稲田と、外に神戸、横浜の両外人クラブチームがあった。毎年対抗試合をやり覇を争った訳だが、十年以上先輩の慶応にはどうしても勝てないのが残念であり、如何にしてこの常勝軍を打ち破るかが唯一の課題であった。之が為に、技術的には英国本土からラグビーの本を色々取り寄せて、精読研究してエイトスクラム、フォワードプレイ、バックメンプレイ等の基本を取り入れて、オーソドックスのラグビーを日本に導入した訳である。併し、この技術的理論を実践して効果を発効して試合に勝つためには、気力、体力を鍛え抜かねばならぬとの認識の下に、全員がハードトレーニングを実行したのである。その結果、昭和初期には数年問全国制覇の黄金時代を現出して、栄ある歴史、伝統の基礎が造り出されたのである。その主なものは、普通の練習後グラウンドの廻りを五周乃至十周走り込む、所謂ロングを引いて脚腰を鍛えたのである。併し乍ら翻って、終戦後の母校ラグビーの戦績を顧みて、栄枯盛衰世の常とは言え、ずっと

沈みっぱなしであるのは、どうしたことかと誠に残念であり、技術的に見ても何等進歩していない様に感じられ、黄金時代の頃の方が本当のラグビーであり、強かったと思われる。

 戦後風潮の変化、スポーツの多様化の為の選手育成難、学園紛争等、種々の困難な事情はあろうが、創部六十周年を契機として、一層の奮起を望み、ハードトレーニングを実践せよと叫ぶ次第である。

 尚余談として、一つのエピソードを記して終りとしたい。前記黄金時代に名選手だった宇野庄治君は、ユーモアに富み頭の画転の早い愉快な好人物であり、僕とは郷里も近く、中学、高校、大学と数年後輩であり、三年前惜しくも急逝したが、卒業後もずっと東京で親しいつき合いを続けた間柄であるが、彼が昭和三十年頃、読売巨人軍の代表をしていた関係上、巨人軍のファンとなり、よく後楽園へ見に行く。当時エースの中尾投手とも個人的な関係で親しくしていたので、時々三人で会食することもあり、宇野君を介し巨人軍にハードトレーニングをする様アドバイスした事があった。投手にはピッチング、野手には守備、バッティングだけでは不充分であり、それ以上に走り込みの重要性を京大ラグビーの例を以て説いたのである。それまでは殆どやっていない様子だったが、之が一つのきっかけとなり、近来では巨人軍の範にならって、どの球団も走り込みをやかましくやるようになった。巨人軍は一寸やり過ぎる位練習をやるが、やはり他チームに倍する練習を持続する事が、既に九連覇を成し遂げた大きな原因の一つだと思われる。

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