目次: 寄稿編 No.16(三)全国高専大会の開催 鷲尾宥三

 六十年も経って当時の記憶もうすれ、殊に写真、日誌等一切戦災で消失したのでまとまったものになりませんが、この機会に皆さんの協力を得て、他の資料と合せて、当事の事が明らかになるよすがとなれば幸です。

 当時一高、三高以外にも大阪、浦和、水戸等の各高校がラグビーを始めましたので、大阪毎日新聞社にいた故久富達夫氏が中心となり、早稲田大学出身の中村元一氏(マネジャーをやった人で、ラグビー界でもかなり顔が広かった)等の尽力で、大正十四年京大主催、大阪毎日新聞社後援で第一回を京大グラウンド(北白川)で開催しました。

 この試合で不幸なことが起こりました。準優勝戦で大高と浦高の試合中、大阪高等学校のフォーワードの鈴木君が、スクラムを組む時にスクラムがくずれて首の骨が故障する大きな事故が起こりました。直に京大病院にかつぎこんで加療をしましたが、首から下が不随となり、生命も保証できない状態でありました。偶々同選手は、大阪毎日新聞社の幹部の高石真五郎氏の甥に当る人だったので、高石さんのところに事情を述べ、ご挨拶に行きましたが、高石さんは流石にスポーツにも深い理解のある立派な人だったので、却てわれわれ関係者を、斯道の発展に努めるよう激励され、深く恐縮した次第であります。

 このような事故があったので、大阪高校はあとの試合を棄権し、その結果この大会では三高が優勝しました。翌年の大会では、この大高が他チームを薙ぎ倒して、見事優勝しました。当時の三高、大高、浦高からは後年京大、東大、九大、東北大チームの中心となった名選手が輩出しています。この大会は、その後発展的に解消しましたが、当時ラグビーに明け暮れした時代の懐しい思い出の一つであります。             (大正十五年卒)

【縞集者注】鈴木氏は周囲の献身的看護と治療の甲斐あって、奇蹟的に一命をとりとめた。しかし、下半身の不自由は如何ともすることができず、同氏はこのハンディキャップを克服するために懸命の努力を続けられた。大高ラグビーは終始変わらぬ力強い援助と励ましを続け、後年、天理教真柱(当時)中山正善氏(大高出身)は鈴木氏を天理図書館に迎えた。之に対し、鈴木氏は立派に応え、わが国の図書館を代表する天理図書館の文献目録――世界中から集めた古新の図書の目録――はこの鈴木氏が語学の力を駆使してなしとげた労作である。

 鈴木氏は病が固まってから結婚され、お子達も立派に成人され、今もなお元気に、意欲的に活躍されている。

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