目次: 寄稿編 No.17 京大ラグビー部の追憶 巖 栄一

 京都大学のラグビー部が今年創立六十周年を迎えるについて、記念事業として部史の編纂をされるということで私にも何か書けとのたっての御勧めがありましたので、何とか記憶を辿り乍ら少しばかり昔の事を書いて見ることに致します。

 先ず京大ラグビー部の部史を綴るということになると、何といっても忘れてならないのは谷村敬介さんのことであると思います。谷村さんは私にとっても三高入学以来手を執ってラグビーのイロハから教えて頂いた御師匠さんであり、又その幅広い御趣味や決して御自分からは表に立とうとなさらない御人柄から私生活の上にも大きな影響を受け、正に生涯の師と仰ぐ大先輩でありますが、京都大学のラグビー部にとっては文字通り「生みの親」ともいうべき大恩人であると思います。

 京都大学にラグビー部が生まれたのは?天狗クラブの神話は別として、大正十年のことであったと思います。当時東大では香山さんが既にラグビー部を創設されて居って、其処からの呼び掛けがあったのは勿論ですが、当時東大には香山さんの他にも鶴原、笠原の両先輩、山本晴二さんの他其の年三高から井場、藤田、西村、大村、高井、岩田等錚々たる方々が入学されて充分にチームの骨組が出来上って居ったのに引換え、京大では谷村さんの他には僅かに清水、瀧口のお二人が三高から新たに入学された位で、既に大学院に進んで居られた竹上、佐伯の両先輩を加えても到底チーム作りは無理な状態であったのですが、そんな中で谷村さんは持ち前の包容力で他の運動部からの有志や三高、京都一中などで多少なりラグビーに馴染みのある人達を糾合して、何とかチームを作り上げられたのです。其の中にはボートからの内田さん、野球部からの勝島さんなど、経験を積まれれば立派なラガーマンになられたであろうと思われる様なスポーツマンも居られましたが、先づ一流チームというには程遠いものであったと思います。勿論部費などはある筈もなく、恐らくユニフォーム其の他の用具一切も谷村さんのポケットマネーで賄われたものと思われます。そんな状況の中で谷村さん、清水さんの熱心な御指導で短時日の問に何とか試合の出来る状態にまで持って来られたのには、非常な御苦労があったことと思われますが、兎も角も其の年の暮れには京大倶楽部の名前で東大と第一回の戦いを交えられることになりました。其の試合の経過については不思議と私には殆ど記憶がありません。或いは試合を見なかったのかと思いますが、兎に角京大の非常な善戦で、そんなに惨めな負け方でなかった事だけはハッキリと憶えて居ります。

 翌十一年には谷村さんは御卒業になりましたが、その後へ三高からキャプテンの渡辺宇志郎さんを始め土井太郎、馬場二郎、古川雄三の諸兄が入学されて漸くラグビーチームらしい恰好がついて来まして、私達三高とも練習試合をやったりしましたが、そのマッチで私はセービングしたところをいやという程腰を蹴り上げられまして腰骨に五糎程のひびが入る大怪我をしまして、その後遺症から後年京大での私のラグビー生活が中途半端なものとなった遠因となったのも不思議な因縁かも知れません。それは兎も角その年末の東大との二回目の対戦では、之亦京大の非常な善戦で確か引分けか或はそれに近い接戦であったと記憶して居ります。

 翌十二年こそは京大ラグビー史に新たな一員を開く記念すべき年でありました。十二年の四月には、色々な経緯はありましたが新たに三高から奥村竹之助を始め鷲尾、小西、三好、真鍋、清川に私と主力の全員が挙って京大に入学し、一気にトップクラスのチームが組成されると同時に、校友会の一部として公式にラグビー蹴球部が誕生することになったのに加えて、荒木総長や福井事務官等の英断によって新設の農学部の建設予算に便乗して待望のグラウンドも建設される事になり、茲に更めて輝かしい京大ラグビー部のスタートを切ることになったのであります。

 殊に特筆すべきことは、前年一年問の三高での種々な実験の結果をふまえて、此の年から京大では初めて所謂エイトシステムのスクラムを採用することになったことです。奇しくも東大でも其の年からエイトシステムを採用するということで、図らずもその年の東大対京大戦はお互いエイト同士の対戦となりましたが、曲りなりにも一年の経験を持つ我々のスクラムワークが遥かに勝れて居って確か八対三位のスコアで京大の楽勝におわった様に覚えて居ます。

 唯私にとって残念な事は、前に書きました腰骨の負傷の後充分な静養をせず東京遠征に参加したのが原因で、其の年の夏一高対三高の陸上戦の翌日から腰が伸びなくなり、結局脾臓が脹れるという奇病で夏休みから二学期の大部分を自宅で静養しなければならなくなり、到頭その年のチームには参加出来なかったことでした。若しも払が健康で本職のバックローセンターか若しくはスクラムハーフでもやることが出来たら、もっと素暗しい戦績を残すことが出来たでしょうし、私のその後のラグビー生活も大分変ったものになったろうと今でも残念に思って居ます。

 翌十三年には、三高からは望月、別所、中出、大高からは初めて戸尾(現姓石橋)君等が入学されて益々メンバーも充実したばかりでなく、特筆すべきことは先ずグラウンドが完成したことでした。先にも書いた通り、大学当局の御尽力で、農学部付属の穀物乾燥場の名目の下に学園の東北隅北白川の一角に広々とした立派なグラウンドが出来上り、而も我々の希望を容れて特にトラック一周五百米として貰ったことにより、フィールドの中に正規の広さのラグビー場が楽々と出来上りまして、四十名を越す様になって居た部員の意気も一層盛んなものがありました。そうしてメンバーの揃った(当時法学部三回生の諸君が高文試験受験の為)十一月に入って二十名足らずのレギュラーメンバーはグラウンド東北隅の小高い丘の上に建てられた合宿所で初の合宿をすることになりましたが、その合宿所は大正天皇御即位大典の時の幄舎の廃材の払下げを再製したものとかで、用材も立派で鴨居や柱には金色の金具が打付けてあるという大層なものでしたが何といっても之が臨時の仮建物であり、而も天井の高さが普通の一倍半もあろうというバカ高い広々とした部屋構えで、其の上当時は疏水の辺りには人家もなく、比叡下しをまともに受けてその寒さには皆閉口したものです。

 然し乍ら三高以来久し振りの合宿でもあり楽しい出来事も色々ありました。その第一は部歌の制定でしょうか。その時迄京大ラグビー部には部歌というものがなく、試合後のミーティングの時には三高の部歌であるForty Years Onを借用してお茶を濁して居たのですが、既に三高以外の高等学校からの部員も多数になって来たことでもあり、ここらで一つ新しい部歌をということになったのです。実は時間があれば私が自分で作詞作曲をしたい気持ちがあったのですが、偶々私が持ち込んで居た歌の本 American College Songs中に、何処の大学の校歌であったかよく憶えて居ないのですが、歌詞の中にIn all the west she is the best, none will be ever greater というフレーズがあるのを見付け、一夜皆の前で披露したところ、之は良いと衆議一決しました。大学の略称の処はKIUと、うまく収ったのですが、最後のスクールカラーの処で、原文には確かgold and whiteとあった処を dark blue and whiteでは字余りで歌い難いので、私は単にblue and whiteとする様に強硬に主張したのです。ところが、頑固な反対者が出て、結局歌い難いのを承知でダークブルー・エンド・ホワイトとすることになりました。そして一節丈では余りに短か過ぎるというので、その後に神戸外人から習い覚えた for we are jolly goo fellowsを附け加えることでどうにか新部歌が出来上ったという訳です。

 次にはライオンのシンボルマークのことです。これについては私にはハッキリした記憶がないのですが、何か英国の昔の楯の中の紋様の一部を採った様なばんやりした記憶があります。尚このマークについては別に一寸したエピソードがあるのです。それは前の年来征した東大のフィフティーンが何ともいえない良い色のライトブルーの広柚の柚口に細い白線が這入ったとてもスマートな揃いのセーターを着て現われたのに刺戟を受けて我々も一つ負けない様な奴を作ろうじゃないかということで計画された訳ですが、扨困ったのがダークブルーの色見本なのです。種々相談した揚句決まったのが、当時の高級タバコにピースというのがあって、その外箱の図案が白地で上の方に金で縁取られたブルーの端雲がたなびいて居るその雲の中の一番濃い藍色が最も所謂 Oxford blueに近いということで、それを色見本にして態々東大と同じセールフレーザーという会社に発註した筈だったのです。尤も誰が実際の発註に当ったかは分かりませんが誰かマネージャーの一人であったのでしょう。それから随分長い間恐らく二、三ヶ月も経ってやっと出来上って来たのは、註文とは似ても似つかぬコバルト色の様な派手なブルーのものでした。之には一同困惑して一時は染め直しも考えたのですが、今更それも無理なことだし生地や仕上げは見事なものでしたし派手なのも亦好いじゃないかという意見も出て、結局その儘ということになったのです。前に書いたライオンのマークは実はこのセーターに付ける為のものだったのです。

 余談は扨置き、その年の東京遠征では一高のグラウンドで東大と対戦しましたが、其の時は私は左のウイングとして出場し、確か対面が一高出身のスプリンターの島村さんであったと思いますが、幸運にも私は三つのトライを挙げることが出来たのに対し相手方は石田主将のペナルティゴール丈の得点で、確か十三対六(注、記録では12?8)位で勝ったと思って居ます。

 翌十四年には屋名君を始め三高、大高等からの入部もあってチームは益々充実して来ましたが、私自身は東京遠征の疲労からか再々病気が悪化して二月頃から一学期の問は芦屋の家で静養しなければならなくなり、暖くなってからは気分の良い目には一人で六甲に登ったり、頼まれれば母校天王寺中学や関大など阪神問の大学へコーチに出掛けたりして居りましたが、二学期になって京都へ帰って来たものの流石に練習に加わる自信もなく、幸いDBには私の紹介で入部された人達が多勢居られたものでその練習のお手伝いをしたりして僅かに無聊を慰めて居る始末でしたが、或る時DBが海軍機関学校と学士ラガーとダブルヘッダーをやるについて手伝って欲しいと頼まれて、之幸いとスタンドオフとして出して貰いました。久し振りの事で張切って居たのか、私は二つの試合で合計九つのトライを挙げ、其の内六つを自分でコンバートして合計三十九点を挙げて、確か三十三対零、二十四対十四で二試合共勝つことが出来ましたが、之は私が一日で得た最多得点でありました。そういう次第で年末の東大戦にもDBのスタンドオフとして対LB戦に出場したのですが、前半の終り近くセービングして起き上った処を激しく胸部を蹴り上げられ、左手が動き難くなりました。何とか右手一本で最後迄やり通し勝つには勝ったのですが、試合後激痛のため全然左手が動かせなくなり、鋏でジャージイを切り裂いて早速医者に馳けつけた処、左胸骨の一部が骨折して居るとの事で、今更乍らろくに練習もせずに試合に出ることの無謀さを思い知らされました。

 そういう訳で私自身は亦もや進級試験を受けることが出来ず留年して専ら静養する他はなかったのですが、京大のラグビーチームの方は更に三高から阿部(吉)、二宮等、大高からも村山其の他が続々と入学して来られて正に全国制覇への準備完了というべき充実振りでした。シーズンに入って私は例によって三高の練習を見たりして居りました処、十一月になって突然望月君と星名君が私の処へやって来て、京大チームに帰ってフルバックをやって欲しいとの話です。私自身キックはそう下手な方でもなかったが、さりとてロングキッカーというでもなし、第一原則としてキックは損だというのが私の信念でもありましたので、身体のこともあり再三御断りしたのですが、相手も仲々頑強で、遂にはキックはしなくても良い、タックル丈して呉れれば良いという殺し文句にいいくるめられて到頭引き受けざるを得ないことになりました。

 当時英国から帰られたばかりの香山さんが京大のコーチを引受けられ、毎日グラウンドに出て親しく指導されて居りましたが、その練習方法はユニークでコンパクトで仲々ハードなもので身体のなまって居る私には相当応えましたが負けん気で何とかついて行く事が出来ました。嫌がって居たフルバックのポジションもやって見れば段々と面白くなって来て、特に敵味方の全体の動きが一目で見えて相手方の次の動きが良く見える事などは、勘を重視する谷村流の私のプレイには最適と思われました。処が十一月末の神戸外人との試合後のミーティングで香山さんに当日の私のプレイに対し手酷しいお叱りを受け、余りの無体に私も我慢ならず退部を申出る仕儀になりましたが、周朗の慰留とその場の空気で何となく納った形になってしまいました。香山さんの亡くなられた今となって弁解することは無意味ですが、私のいい分が正しかったとの信念は今も変りはありません。恐らく香山さんも腹の中では充分そのことを御承知であったと思って居ます。

 扨十二月にはいって愈々同志社戦を迎えることになりましたが、生憎私はその数日前の猛練習で左大腿部を肉離れし、おまけに右手中指を突き指して、風邪の村山と二人試合に出ないことになって居ました処、前日になって急に出よということで、慌てて床屋へ馳け込んで延ばして居た頭を皆と同様に坊主に刈上げて来た様なこともありました。当日の試合は実に苦しいゲーム運びで、病み上りの村山の不調もあって得意のバックスの攻撃が一向に調子に乗らず、前半に東田君にお得意のドロップゴールを決められ、其の後一トライは返したものの前半は四対三と実にやり難い試合運びとなってしまいました。剰え後半始めに味方二十五碼線上でスクラムハーフからスタンドオフヘのパスを東田君にインターセプトされ、私が東田のフェイントにつられてタックルを逃した為にブラインドに切込まれてトライをされ、七対三となってあわや敗戦かとも思われる試合経過となりましたが、終了近くなってラインアウトの崩れから中出、川本のダブルキックが幸運にも敵バックラインの後に落ち、高く上ったバウンドがダッシュした望月君の手にスッポリと這入って一直線にポスト直下のトライとなり、ゴールも成って漸く八対七の大接戦で勝利を得ることが出来ました。

 其の後は益々練習にも油が乗り、打倒慶応の秘策もなって東征への心構えも着々と出来て張り切って居った処、不幸にも十二月二十五日 大正天皇御崩御の悲報に遭い我々の雄図も空しく去り、その欝憤晴らしに其の夜十二時過ぎから夜を徹して叡山に登り、膝を没する積雪の中四明の頂上で日出を迎えたことは未だに忘れることの出来ない思い出であります。

 斯うして私の京大におけるラグビー生活は中途半端のままおわりをつげた訳ですが、その後の京大ラグビー部の発展振りについては既に広く知られて居る処であり、翌昭和三年には見事全国制覇の偉業をなし遂げたことを記せば充分でありましょう。唯其の年の阿部、村山を中心として馬場、星名、宇野、進藤と並んだ京大バックスのパスワークは、其の長さといいスピードといいそれ以前は勿論、以後も今日迄未だ曽て見たこともない見事なもので、恐らく今後と雖も二度と見ることは出来ない程のものと思います。

 此の様に輝しい栄光の歴史と伝統に守られて、京大のラグビー部が、色々な曲折はあったにしても今日迄六十年間営々として続いて来たことは、我々OBにとっても嬉しいことに違いありませんが、唯残念なことは近頃の京大が小成に安んじてAリーグに止ることのみに汲々として居る様に見えることです。勿論之には入学難とかグラウンドの不便さとか、それ相当の理由のあることは百も承知ですが、之も部員の心懸け次第では克復することは不可能ではないと思われます。例えば体力の増強とかスタミナの養成は各人が練習時以外の時間にも出来ることですし、基礎技術や基本戦術の研究は春夏の練習時に充分出来ることですし、そうしてシーズンにはいれば専ら基本の錬磨と戦術の完成に限定して綿密な計画の下にコンパクトで休みのないハードな練習に徹するならば、毎日の練習時間は一時問半もあれば充分に四十分ゲームに耐え得るスタミナも維持出来ることと思います。要は各人の自覚と熱意の問題で、少なくとも貴重な青春を賭してラグビーを選んだからには、其の位の心意気があって然るべきと考えます。

 私の持論ですが、凡そスポーツの中でもラグビー程創造性に富んだ競技はないと思って居ます。同時に亦ラグビー程プレーヤーの自主を貴ぶスポーツも他にはないと思って居ます。一旦試合場に出れば頼む処はプレーヤー自らの力と判断力丈で、外部のコーチや監督は如何とも出来ない、之こそがラグビーの真髄と私は思って居ます。其故にこそラグビープレーヤー自身の自覚と錬磨が徹底的に要求される訳で、男子として之程やり甲斐のあるスポーツは他にはないと迄思って居ます。平素顔も出さずに勝手なことをと御考えの人もあろうかとは思いますが、其の辺の処は老の繰り言と御寛しを頂いて、今後一層の御精進と御発展を祈って筆を擱きます。

(昭和二年卒)

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