目次: 寄稿編 No.18 京大ラガーの意気地 清川 安彦

 私はもともとラグビーは大学ではやらない考えでいた。英国のラグビー・スクールの話は大正の初め頃神戸第一中学で英語の教師から聞かされ、プレーの精神や様子は或程度知っていた。しかし当時の世間では試合を見る等はあり得なかった。京都の三高に入って暫くした頃誘われるままにラグビー部に入った。それには二つわけがある。尹明善君(三高から東大へ)と同居していたが、その尹君が入部して私を誘った事、今一つは神一中の同期の土井太郎、奥村竹之助両君が花々しく活躍しているのを見て、心動かされるまま「お前もやらぬか……」ということで加えて貰った。

 しかし医学部へ入学したら実習が大変だという事でラグビーから離れる事にした。ところが四月のある日たしか河合務君と故中島活右君が訪ねて来て、今度京大にラグビー部を作ることになったが、メンバーは多い方がよいので「君も一役…」と言われて、京大ラグビー発足の仲間に加わってしまったわけである。

 それには農学部の北端に、農作物乾燥場という名目で広いグラウンドが出来た。それが利用出来るというので発足の運びになったとの事。今頃見る様なあんな立派な運動場でなく荒削りの荒土グラウンドである。北東の隅に農夫宿舎の様なのが建てられたが、それがクラブ・ハウスになり合宿も其処でやって、見物席などありっこはない。芝生などもっての外。練習は比叡おろしの寒風の中、雪を蹴散らしてのタックルの練習が私達に課せられたものである。この練習の成果をお見せする事になったのが東大とのドロンコゲームである。大正十三年、まだ前年の大震災の余燼がお茶の水の濠端に残っているようなころで、赤門前の大津屋で遠征合宿しての試合であった。

 私個人の想出として最も強く印象に残っているのは、どなただったか宮様が御覧になる、というので一同緊張して三田のグラウンドで慶応との試合をした時の事である。ホイッスルが鳴って二分も経たない時、スクラムを組んだ際に頭を打って意識がボンヤリして倒れ、アウトラインの外に臥せていたが間もなく自然によくなったのでまた走り出してスクラムに加わった。倒れている問私のポジションを馬場二郎さんが穴埋めしてくれたのを後で聞いたが、この試合勝ったのか負けたのか、いまでも識らない。

 早大ラグビー部が出来たのは、私達よりも前であるが、それとオープン戦を京大グラウンドで行った際、「マーク」と言ってキャッチした球をたたき落され、その荒さに驚かされたのも印象深い。

 一緒にプレイした奥村竹さん早く逝き、意気の合ってた別所の安さんも今はなく、指導を受けた香山さんは、第十二回国体が静岡で開催された時、秩父宮妃殿下を案内して来られたが、私がラグビー場係だったので親しくお話した。それが最後になっている。渡辺宇志サン、望月信チャン、名をあげると走っている姿が目に浮かぶ。古川雄サン、土井太郎サン、巌サン、鷲尾宥サン、名前と共に試合の幾つかが想い浮かんでくる。合田夷は静岡へ先年来てくれたし、内藤の資サンとはスポーツ以外の関係で一番近しく多くの回数顔を合わせている。

 最後にとっておきの私の誇り。私はフォワードなのでトライとは縁の遠い地位であるが、後にも先にも只一回だけトライしたことがある。それは大阪高校グラウンドでの雨の試合の日、転り球を?んで右端へすべり込んだ。この事が「清川トライす」という記事になって後々医学部の同級からヒヤカシの言葉にされたが、快く受けとめられたのは一生只一回の出来ごとであったからである。

 一頃は静岡市の少年ラグビー・スクールの校長サンなどやっていたが、今は年齢です。静岡県ラグビー協会の顧問という資格で、時偶見物に県立草薙球場に立つことがあるだけに終っている。

 とは言うものの京大ラガーの意気地はいまだに脈々として私を支配している。その証拠は観戦中にいつしか握りこぶしを作り体をゆすり、ナイスキックを見ると直ぐナベサンを想い星名のテキが目に浮かぶし、うまく組まれたスクラムを見ると中出を思い小西、阿部キチをふと口にする。この想出、体で覚えた記憶は、おそらく死ぬまで続くに違いない。楽しいことである。

京大ラグビー万歳である。

(昭和二年卒)

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